文/中国黒竜江省の大法弟子
【明慧日本2023年9月22日】私は大法弟子の家庭に生まれました。生まれてから今日まで、21年にわたる修煉の道を歩んできました。色欲心や男女の情、常人の学校や社会での変異した現代の観念や行為、スマートフォン、ゲーム、ショートビデオなどへの執着は、正念がない私の修煉にとって非常に大きなな妨害となりました。私はここで、自分が大法の中で堅実に修煉し、人間を選ぶのか神を選ぶのかの葛藤から抜け出す体験を共有し、同修と切磋琢磨して交流したいと思います。これらは現在の私の次元での認識であり、不適切なところがあれば、慈悲をもってご指摘ください。
師父はこのようにおっしゃいました。「法は一切の執着を打破することができ」(『精進要旨二』「妨害を排除せよ」)。私の体得では、多く法を学び、正念を強く持つことが重要です。法理をはっきりと理解せず、正念が足りず、人間に陥った時にそこから抜け出すのは難しく、自分を取り戻すのも難しいのです。しかし、これらの思考は本当の自分ではなく、頭脳が妨害された後に注がれた迷わせる思考なのです。妨害は、私たちに迷わせる思考を自分自身だと思わせ、神として振る舞うことができないようにしています。冷静で理性的な思考によって元気な自分を取り戻すことで、初めて自分が何をしたいのか分かるようになります。
師父は、このようにもおっしゃいました。「多くの法理をもって謎を解き明かすことができ」(『精進要旨』「聖者」)。私の体得では、修煉者の正念が奮い立たせられた時、すぐ大量に法を学び続けることです。努力して法を学び、気を緩めずに怠らないことこそ真の精進であり、人間から解脱することができるのです。
特に現代の変異したもの、色情や欲望が氾濫し、暴力が充満する現代的な価値観や行動から抜け出す鍵は、多く法を学んで意志を固くし、法に合わないものを脳裏に入れないことです。行動や思考における妨害も、それらが現れた瞬間に排除する必要があります。法に合わない思考は私自身ではなく、私は大法の一粒子です。法に合わない自分を認めず、正念でこれらの悪い思考を排除するべきです。
生死を放下する強固な意志を持てば、常人の心に動かされません。正念を継続的に強化するためには、法を努力して学ぶ必要があります。以前は常人の執着により、私は法を学ぶことにあまり力を入れていませんでした。毎日少し学べば十分だと考えていましたが、その結果、一時的に向上を感じることもあったものの、しばらくすると常人の心に動かされてしまいました。脳裏に積み込まれたよくないものについて理知的に判断できず、あるものはそこそこよく、特に問題がないと思ってしまうこともありました。
私の認識では、次元に合わないもの、「何も問題ない」というよくないものが、段々と私の意志を消耗させ、自分の修煉や返本帰真について麻痺させ、無感覚にさせていると気付きました。徐々にこれらの思考に左右され、どの思考が自分のものか区別できなくなってしまうこともありました。人間社会で自分を緩めることは、自己に毒薬を注ぎ込んでいると同じことです! 妨害を排除し、修煉を精進させるためには、常に法を多く学び、心を込めて法を学び続ける必要があります。
スマートフォンやインターネット、常人の異常な行動、現代の価値観から抜け出せない同修の皆さんには、心を静めて冷静に考えてみることをお勧めします。私たちはなぜこの世界に来たのでしょうか? この最後の時間が過ぎた後、あなたはどの位置にいるのでしょうか? なぜ人心、人間の念、人間の情にしがみついて放そうとしないのでしょうか? あなたが求めているのは、すでに地獄以下に変異した現代の悪魔社会のものではないのでしょうか? いかなる人心も三界を超えることはありません! 本当に師について円満成就したいのですか? 未来の宇宙の法王になるあなたは、法に合わないものを手放さずに自分の世界を不完全にし、一人の衆生を駄目にしてしまえば、人を殺すよりも深刻ではないでしょうか? 生死を放下できなければ、円満成就できません。人間のものを放下せずに、どうして円満成就できるのでしょうか?
生死を恐れていないのに、人間界の誘惑を恐れるのですか? 大法弟子たちはただ人々を救う責任があるだけで、世俗的なものに影響されてはなりません。神は、スマートフォンや人間の言葉に心を動かされません。神は自分を緩め、安逸や怠惰、懈怠の意志によって、その次元に合わないようなことをしません。師父は精進するようにとおっしゃっていますが、精進しないのは法に符合していないのではありませんか? 師父の言葉を聞いていないのに、修めていると言えるのでしょうか? 一部の若い修煉者、特に大法弟子の家庭に生まれた修煉者の中には、学校や社会で大法から距離を置いたり、さらに遠ざかったりする人もいるようです。師父の新しい経文は、彼らを目覚めさせるのに十分ではないでしょうか?
師父はこのようにもおっしゃいました。「法徒苦心して喚んでも、目覚めず 機縁過ぎれば、時辰(じしん) 遅れ 天機いざ顕れば、悔しく魂驚き 大劫直に起きて、天門閉づ」(『洪吟三』「世人に贈る」)
私たちは家族の同修(親、祖父母、友人)に督促されたから修めているのではなく、すべての生命が自分の位置を決めるために修めているのです。成績が出るのを待ってから解答用紙がないのを後悔するつもりですか? すべての時間を活用して法を学び、実修で精進することが大切です。麻痺して逃避し、常人のものをつかんだまま放さず、与えられた危険の一歩手前で踏みとどまる時間を無駄にするつもりですか? 人間の中で日々を無駄に過ごし、ためらい続ける中で、明晰な正念がほんのわずかしかなく、今、修煉しなければ、いつなったら修煉するのでしょうか? 修煉から逃避する時間はもう残されていません!
人間の中から抜け出すためには、いかなる観念も持ってはならず、一つの思い、一つの念を法の基準に照らして内に向けて探さなければなりません。自然に見える一部の思考や行為と観念も、法に則しているか、この「当たり前」も法と照らし合わせる必要があります。真に人間と決別するのであれば、思考が人間の一切に執着しないようにしましょう。そして肝に銘じてください、私は修煉者であり、大法弟子です。生活を追求しているのではなく、すべてにおいて自分を厳格に律すべきです。神がどのように行動するか考えてみてください。常人の状態に最大限に符合し、しかし心はいつも常人の次元にいないのです。
修煉において、私は次のことを強く体得しました。スマートフォンやゲームに執着すること、他人の現われや言葉に心が動じること、外見や服装、話し声の良し悪しについて人間の念で考えること、修煉によって人々の中で孤独を感じること、理想的な人生を望むこと... これらの思考は、生活の中で普通に見えますが、しかし神が求めるものではありません。修煉者はこれらのことに明晰でいて、迷わされてはなりません。正念をもって法に照らし合わせ、人心によって現れた一言一句、一つの考えや一つの念を抑制し、絶えず思考の中で人心、人間の念、人間の情を排斥しなければなりません。