穏やかな心で病業に立ち向かう
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2023年10月5日】ここ数年、周りには病業に苦しむ修煉者が多く、私も生死の境目を二度経験しました。師父の守護と救済がなければ、私は生き延びることはできませんでした。

 二回の病業を平静に乗り越えることができた

 一回目は、刑務所から解放されて間もないある日、突然、耳の底から強烈な痛みが一気に頭全体に広がり、その後、頭が腫れて、両目が開かないほど腫れ上がり、高熱を伴いました。頭は針で造った帽子をかぶっているようで呼吸するたびに毛根が痛くて、毛根から液体が溢れ、乾いたら硬いかさぶたになります。家に来た同修は私の様子を見て、交通事故にでも遭ったのかと思ったようです。

 当時、私は3年間刑務所に拘禁されて釈放されたばかりで、3年間、修煉から離された私は、こんな災をどのように乗り越えるのか。痛みに苦しめられながら高熱を出し、恍惚状態に陥った私に唯一できるのは、MP3で師父の説法の録音を聞くことです。一晩中聞き、起きていても寝ていても、意識がはっきりしても朦朧としていても、耳元でずっと師父の声が聞こえて、安堵しました。母親の腕の中にいる赤ん坊が、母の心臓の鼓動が聞こえると安心して眠れるのと同じようでした。

 私は小さな病院に勤めています。ある日、勤め先の医師が用事があって我が家に来て、私の状態を見てあまりのショックに「脳膿瘍です! よく病院に行かずに我慢できましたね」と悲鳴をあげました。しかし、私の頭はまだ空っぽで、医師の言葉の意味すら考えていませんでした。その時は真夏でしたが、私はセーターを着て足に毛布をかけていました。この状態は正しくないと気づいて、子供に大法弟子が創作した曲を再生してもらいました。

 魂を揺さぶる美しい曲が大法のエネルギーを放ち、私の状況も良くなりました。一番お気に入りの曲「師父に喜んで頂きたい」を聞いた時、どうしようもなく涙が流れ、その悲しさは言葉では言い表せないほどでした。まるで今までの輪廻転生の中に遭遇したすべての不幸をその瞬間に師父に話せたようで、長い長い時間泣いていました。その夜から、頭の痛みが急に和らぎ、すべての症状があっという間に消えました。1週間後、普通に出勤できるようになりました。

 二回目の災難も刑務所から出てすぐのことで、ある日の夜10時頃、突然、右側の肋骨が言葉では言い表せないほど痛くなって、ベッドに倒れてすぐに動けなくなりました。痛みが増して呼吸をするのも難しくなり、2時間もの間、ベッドでその姿勢のままでまったく動けませんでした。

 恍惚状態の中、携帯から発正念のアラームが聞こえてきたので、私は心の中で発正念の口訣を唱えました。すると、ゆっくりと呼吸ができるようになり、体を少し動かせるようになりました。ゆっくりとゆっくりと、私はベッドにもたれて、そのまま5、6日も体を横にすることができず、師父の説法録音をずっと聞きました。その時は、横になるどころか、少し体を傾けるだけでも息が切れそうになって、人間はどれほど小さいのか、命はどれほど脆いのかその数日に痛感しました。

 回復まで、日中、私はベッドに横にならず、すべきことをこなしました。但しゆっくりとしか動けないので、何でもゆっくりやりました。少し力を入れると体が爆発しそうに痛いのです。学法する時、一回に3文字しか読めず、3文字読んだら息を整えなければなりません。真相資料を作ろうとしても、ホッチキスを押さえる力もありませんでした。トイレに行っても排便できなくて、水を飲もうとしてもストローを吸う力がありません。人間の身体はこんなにも壊れやすいし、こんなにも無力です。しかし、修煉には偶然なことはなく、魔難も修煉の不可欠な一環なので、何も考えずに大法の要求に従って行えば良いと思いました。10日間ほどで、体は回復しました。

 病気に遭遇する時の心の持ち方についての思考

 病気の関を素晴らしく乗り越えた同修が書いた交流記事を多く読んでいました。正しく行った素敵な同修たちに比べて、人生の二回大きな難を自分はどのように乗り越えたかを自問しました。答えは、私は「病気」という概念をまったく考えていなかったからです。まして常人の病に自分の症状を照らし合わせることも一度もありませんでした。

 息子は『轉法輪』を一回読んだだけで「先天性心房細動」が治りました。それから27年経ちましたが、薬を一錠も飲んだことがありません。私が不法に拘禁された間、息子は3日間腎臓が痛かったのですが、仕事を一日も休まずに我慢して、4日目になんと自然に腎臓結石を排出しました。息子の頭に病気の観念がなくて、その時の状態は大法の要求に達したので、師父によって業力が除去されたと私は思います。

 一方、このような同修もいます。普段、自分の修煉を非常に重くて緊張するものにしてしまって、そのような状態で病気が現れたら、重荷に耐えられなくなります。修煉はすればするほどリラックスして穏やかになるべきですが、病業の関に遭遇した時、全体が暗くて気落ちている同修がいます。師父は「修煉の中で、皆さんは良いことに出会っても、良くないことに遭っても、すべて良いことです」[1]とおっしゃいました。もちろん、苦難に陥った人は辛くて苦しいです。しかし肉体が辛いときこそ、どうしてまたあれこれと考えを巡らせて、精神面でも自分を苦しめるものを加えるでしょうか。それは人為的に難と苦しみを増やしていることではないでしょうか。

 地元に同修Aさんがいます。修煉前に重い心臓病を患い、修煉後に治療しなくても治りました。一昨年、Aさんはよく鼻血が出て、間もなく脳血栓症になり、家族に病院に送られました。当時の状況は非常に複雑で、Aさんは出血と閉塞の相反する症状を同時に持ち、さらに心臓病も併発していたため、医師も治療が非常に難しいと判断しました。Aさん自身はすでに意識がなくて、同修たちは病院に行ってAさんのために発正念しました。退院後、Aさんの家に行って学法と煉功に付き添いました。Aさんはやっと回復して、歩く時に足が少し不自由ですが、グループ学法に参加することもできるようになりました。しかしこれは、息子が十数万元(約数百万円)の医療費をかけたおかげで病院に救われたとAさんは周りに言っています。同修たちは「師父の救い済度がなければ、たとえ息子さんが倍の金をかけてもあなたは回復できませんよ」と言っても、Aさんは 言い方を変えません。1年が経ち、Aさんは二回も三回も発病し、息子さんが大金をかけてもAさんの命を救うことができず、Aさんは残念なことに他界しました。

 師父は、「実のところ、人間は先天の純真さ以外、一切の観念はみな、後天的に形成されたもので、自分ではないのです」[2]とおっしゃいました。それなら、自分ではない「偽りの自分」が持っている観念を、どうして固守するのでしょうか、純真な心を保つことはどれほど良いことでしょう。

 それなら、余計なことを考えず、穏やかな心を以てしっかり学法しましょう。交流文章に書いたように、修煉に対して強い意志を持たなければならなりません。常に強い意志を持って毎日しっかり学法すれば、それでも邪悪が近づいてくるでしょうか、病気に遭いますか。 頭の中に大法をしっかり刻んでいる状態であればあらゆる魔難も乗り越えられると思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「シカゴ法会」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「誰のために存在するのか」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/2/21/447868.html)
 
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