文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年10月15日】数年前、あるプロジェクトに参加し、巨大なプレッシャーに立ち向かったとき、私たちは後退せず、旧勢力に立ち向かう意志を試みました。その詳細はここでは述べません。夜明けが訪れた時、ある同修が突然介入し、彼の方法は私たちとはまったく異なり、状況を非常に複雑にしました。
私は彼と交流を試みましたが、彼は私たちの方法を非難しました。私は彼と対立する訳にはいかないと知っていました。そうすれば、旧勢力に笑われてしまうだけだからです。交流ができないので、耐えるしかありませんでした。プロジェクトが一つの段階で成果を上げると、私たちの資源と人力は極限に達しており、プロジェクトは一時停止しました。思いもよらない停止は完全なる失敗でした。
その後、その同修は私たちの失敗を非難し、同僚たちと一緒に原因を分析し、すべての責任を私たちに向けました。私たちは内部で話し合った結果、彼に対する対処法は、議論をしないこと、同僚たちに説明をしないこと、対立を避けることであると決めました。同僚たちからの非難に黙って耐えましたが、自然とその同修と疎遠になり、心の中で怨みが生まれました。
数年後、私は警察に不当に連行されました。獄中で私は内に向かってたくさん反省しましたが、この出来事を忘れていました。師父は警察の口を通じて私に言われました「あなたと〇〇との対立について聞いたことがあります」そこで、この出来事を振り返り、私はその同修について悪口を言ったことがないこと、自分に非がないことに気づきました。
たとえこの一度の試練から抜け出せたとしても、この出来事は私の脳裏にずっと残っています。何度も出来事の経緯を整理し、すべての詳細を整理しましたが、自分に非があることは見つけられませんでした。私は師父に言いました「師父、私は愚かです。どうかご指導下さい」
すると、ある法が私の脳裏に響きました。「対の彼、間違いの私」(『洪吟三』の「誰が是 誰が非」。私の長年にわたる不平が一瞬にして爆発し、涙が溢れました。「全能なる師父よ、この出来事のすべてを、あなたは知っているはずです。私の貢献と苦しみを知っているのに、なぜ私が間違っていると言うのですか?」と、自分でも驚くことに、このような情緒まで現れ、即座に除去しました。「師父(の法)は私が間違っていると言っています。ならば、絶対に私が間違っているはずです。なぜなら、正誤の基準は私ではなく、師父にあるからです」 と私は考え、更に内に向かって探すことを強化しました。それでも見つけられませんでした。しかし、私が間違っていることを知ることで、心が落ち着きました。
2、3カ月後、法から学んだ「大法弟子にとって外部からの圧力は試練であり、精進の機会になりますが、大法弟子内部のトラブル、圧力も同様に試練であり、精進の機会になります」(「ヨーロッパ法会への祝辞」)。これにより、私の気分は明るくなり、(心の中で)師父に言いました「師父、私は間違っていました。師父が私に提供して下さった成長の機会を逃しました。もう一度機会を下さい。私は必ず乗り越えることができます」 一週間後、慈悲深い師父は私に似たような状況を与えて下さいました。2カ月かけて乗り越えることができました。
今、出来事の経緯を再評価すると、多くの間違いがあることに気付きました。ここではそれぞれを詳しくは述べません。私は今、その同修に対して、怨みを持っていないだけでなく、感謝の気持ちを抱いています。
この出来事を通じて、私の観念は変わりました。矛盾が発生するたびに、矛盾の当事者自体の正誤や対立を判断しなくなりました。唯一考えることは、師父が私の前に矛盾を置いて、私に何を達成させようとされているのか、どのように成長すべきか、ということです。
正誤は同じレベルの認識であり、そのレベルの基準で測定されます。そのレベルを超えると、成長こそが最も重要であることがわかります。成長した後、以前の認識の「正」や「誤」は実際には誤りであることがわかります。自分の「正」にこだわることは、元のレベルにこだわることであり、成長していません。この視点で問題を見ると、怨みがなくなります。当時の失敗も今では異なって見えます。
これは私の考えであり、間違いがあれば、どうぞ慈悲深く指摘してください。