同修の不足を見て、内に向けて探すことができますか?
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年10月22日】同修Zさんは80歳を過ぎていますが、修煉のあらゆる面でよく修めており、師父の詩である『洪吟』から『洪吟四』まで順番に暗唱できます。派出所で法輪大法真相を話したり、拘禁されている同修を助けたりなどとよく行っています。しかし、Zさんと嫁はともに修煉者ですが、修煉において、互いに相手の欠点を見ており、内に向けて修めることができない状態です。

 そのためZさんは、「嫁の修煉が一日も早く向上できるように、嫁に環境の良い学法グループに参加させたい」と思ったそうです。Zさんは私ともう1人の同修にZさんの家で学法することを誘いました。しかし、Zさんの家に学法に行くたび、私たちは同じ「演劇」を見ていました。Zさんと嫁は、相手の不足や相手が法に則っていないと互いに指摘し合っていました。

 一、1年間の「演劇」は、内に向けて探すことができた瞬間に終演を迎える

 私はいつも、Zさんと嫁に「内に向けて探し、各自が自分自身を修めるよう努めてほしい」と言っていました。私はZさんと嫁と交流し、Zさんと嫁に明慧ネットにアクセスする方法や自分たちの問題と関係する師父の説法の検索方法、同じような問題があった同修の修煉体験文章を見る方法を教えました。Z同修がネットにアクセスすることができないため、師父のどの説法でどの部分を読めばいいかを教えたり、記事をプリントアウトして読ませたりしました。

 実際、Zさんの嫁は本性が善良で、2人は本当の父と娘のような関係で、隔たりもなく、何でも話せる状態です。嫁のほうが新しい学習者ですが、毎日、学法をし、交流文章を読み、自分に照らして修めています。ただ、師父の説法を全部まだ読んでいないし、修煉においてわからないところがあります。修煉には過程があるからです。

 しかし、その後も私がZさんの家に行くたびに、相変わらず同じ「演劇」が繰り返され、Zさんと嫁は互いの不足を指摘し合っていました。そのとき、私は「演劇」を見ているだけで、自分の内に向けて探さず、かえって、共産党の内紛のときにあった「マルクス・レーニン主義は外側に向けられている」という言葉を思い出しました。というのは、党文化的なものは、他人を標的にし、他人を修めることばかりだからです。私は、「演劇」が私自身を修めることのためだとは気づかなかったのです。

 2022年の年末、武漢肺炎が大流行し、私にも感染症状が出ました。ある日、中共ウイルスは「中国共産党員」を標的にしているという師父の説法を思い出しました。私の体内にまだ邪党の毒素が残っているかもしれないと思い、『共産党についての九つの論評』を読み、率先して邪党の毒素を除去しました。すると、翌朝、感染の症状が消えました。

 Zさんも中共ウイルスに感染し、症状がひどかったので、私はZさんと嫁に『共産党についての九つの論評』を読むよう勧めました。その後、私は、嫁のほうが本当に自分を修めており、自分を変えようとしていると感じました。しかし、Zさんは引き続き、嫁に対して、文句を言ったり、悪口を言ったりしていました。

 この1年間、私たちは一緒に法の勉強をしてきて、Zさんが外へ向けていると感じました。あるとき、私は「Zさんのことばかり見るのをやめよう。自分自身には党文化があるので、自分こそ修めなければならない」と気づきました。その後、Zさんの家の近所の事情で、私はもう1人の同修に「当分Zさんの家に行かないようにしたい」と相談したところ、彼女も「私も行きたくない」と言いました。

 それから、Zさんの家に学法しに行ったとき、いつも通りに法を学び、「終わったら学法を休むことを話そう」と思いました。しかし、学法が終わって、Zさんがいつものように文句を言わず、「私は内に向けて探したら、向こうも改めたよ」と言い出しました。しかも、その言葉を繰り返し言いました。しかし、私は真剣に聞かなかったのです。すると、もう1人の同修が、「Zさんは自分が内に向けて探したら、嫁さんがいい方向に変わったと言っていたよ」と話してくれました。

 そのことを聞き、私はようやく理解しました。Zさんは嫁のことばかりを見ており、私もZさんのことばかりを見ていました! 私はZさんとまったく同じことをしていました。外へ向けて人のことを見る習慣を改めさせるために、師父はこの芝居を按排して下さったのです! この「演劇」はすべて私のためのものでした。私は1年間この「演劇」を見てきましたが、自分が「演劇」の中の1人であることさえ分かりませんでした! 他人を修めることを放下した瞬間、「演劇」は幕を閉じました!

 同修の皆さん、師父が私たちの一つの執着を取り除くために、どれだけの苦労をされているかわかりますよね! 実際、それは私たちが理解できることのほんのわずかな表面に過ぎないのです。師父は法の中ですべてを私たちに伝えて下さいましたが、私たちは人心が邪魔をして、なかなか悟れなかったのです!

 二、同修の不足を見て、自分自身を探すことができるようになった

 ある日、私は『轉法輪』の第九講「大根器の人」の節を暗唱したとき、「今日いっぺんにできるようなら、あなたは今日にでも佛になります」との一文が本の中から私の頭の中に飛び込んできました。私はなぜ、多くの事に対していっぺんにできないのでしょうか?

 例えば、私は同修の欠点を見かけたとき、外に向けて探さず他人を修めず、すぐに自分自身を修めることができるのか? と思ったりします。ある日、法の一節が私の脳に浮かびました。師父は『轉法輪』の中で「彼には本当に見えたのでしょうか? 確かに見えました。しかし見たのは真相ではありません。なぜでしょうか? 彼の次元が低いので、その次元において彼の見るべき佛法の現われだけしか、彼に見せることができないからです」と説かれています。

 私はすぐに理解できました! 同修がよく修めてできた良い面が見えなかったということは、私の次元が低く、まさに私の心性の位置です。同修の欠点を見かけたら、まず自分を修め、それから相手に善の心を持って注意を促すべきだと思いましたが、それにしても、他人を修める心を放下できないことになるので、無条件に自分自身を修めるべきだと改めて思いました。

 私は20年以上修煉してきました。法を正すことがもう最後の最後を迎えており、いつ終わってもおかしくない状況です。ですから、私のように自分をよく修めることができなければ、多くの機会を失うことになると思います。私たちは師父の要求に従って行うよう努力し、師父に多大な労力と心配をかけないようにしましょう。

 これらのことは自らの体得ですが、法に則っていなければ、法を参照してください。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/19/465453.html)
 
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