やっと自分自身の根本的な執着を見つけた
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年11月5日】師父の最近の二つの経文『大法修煉は厳粛である』と『険悪を遠ざけよう』を読んだ後、私は修煉の厳粛さと、師父が人々を済度するために犠牲を払われている偉大さについてさらに深く理解しました。

 修煉者による関連する共有記事もいくつか読みました。修煉の関門を通過できなかったときに、自分の根本的な執着をどのように探したかについて話した人もいました。また他の内容は、旧勢力がどのようにして修煉者の人間的観念や執着を利用し、資格のない修煉者を排除したかについての理解に関するものでした。私は「自分の根本的な執着を見つけるには、法輪大法の基準と自分を比較する必要がある」ということに気づきました。

 1999年の中国共産党の迫害以来、私を含む多くの修煉者たちは、仕事、家庭、その他の環境で多くの困難に耐えてきました。一部の修煉者は不満を抱いているかもしれません。彼らは、なぜ師父が自分たちを守ってくれなかったのか、なぜ奇跡が起こらなかったのか、なぜ自分たちの正念が効かなかったのかを疑問に思いました。

 師父はこう説かれました。「あなた自身に問題があるのであって、師父はあなたに借りなどありません。師父はあなたを救っていると同時に、あなたの罪業を肩代わりしています。しかも、あらゆる手を尽くしてあなたの罪業を帳消ししようとしているため、あなたは師父に借りがあるのです」[1]

 これらの修煉者は、自分たちの苦しみのすべてが自分自身の業力から来ているということが理解できていないように感じます。彼らはまた、師父が私たちのために何を犠牲にして耐えてくださったのかを見ることができません。彼らは自分自身の痛みを感じることしか出来ていないのです。したがって、私たちは修煉者として、苦難は良いことであると考えるべきで、しっかりと修煉しなければなりません。

 私は何度か迫害を受けてきました。私は恐怖やその他の人間の執着から悪に屈してしまいました。私は自分を慰め、欲望、名声、富に執着していることを知っています。しかし、これらはどれも私の根本的な執着ではないようです。

 私は子供のころから内向的で、他人とのコミュニケーションが苦手でした。何の束縛もなく、自由であることを楽しんでいました。お互いに干渉せずに、みんなが自分の人生を自由に生きていけたらいいなと思っていました。しかし、今、これが私の最も深く、最も根本的な執着であることに気づきました。この執着のせいで、葛藤に遭遇したとき、自分の内側に目を向けるのではなく、問題と向き合わずに逃げてしまい、表面的な平和を維持できるようにと人との議論も避けていたのでした。

 さらに、他人の自由が奪われ、影響を受けているのを見ると、自由を奪った人たちに憤りを感じました。たとえば、最近多くの人が新しい規制を満たしていないという口実で、警察や都市管理当局に電動自転車を没収されると、その人たちの人権と自由が侵害されていると感じ、私は憤慨してしまって警察や役人に対して憤りを感じるのでした。

 また、明慧ネットで法輪大法修煉者への迫害に関する記事を読んだときも、憤りを感じるのです。修煉者が迫害されているとき、失われたのはほんの少しの自由ではなく、旧勢力が師父の法を正すことを妨害したからです。私の心は旧勢力と迫害に加担した加害者に対する憤りでいっぱいでした。このことが私を動揺させ、落ち着いて内に目を向けて自分自身の執着を見つけることが出来なくなっていたのです。

 加害者に対して慈悲深くあるべきだとわかっていても、実際にそれを行うのは難しいのです。迫害が続いたとき、私はさらに憤りを感じ、「なぜ師父は旧勢力を滅ぼして悪者を懲らしめてくださらないのか? なぜあの邪悪な警官たちはすぐに報復を受けないのか? そうすれば私は自由を取り戻すことができたのに」、などです。

 これらの考えは、私自身の「自由」という利己的な考えに基づいています。しかし、私は「修煉者が遭遇することは何事も偶然ではない」という事実を見落としていたのです。私たちが生み出した業力は滅され、借りは返済されなければなりません。さらに重要なことは、修煉して執着をなくし、心性を向上させなければなりません。師父は私たちに、どんな状況であっても自分の執着を内に向けるように求められています。そうして初めて旧勢力による迫害を克服することができるのです。

 今では、「なぜ私が根本的な執着を見つけることが出来なかったのか」がわかりました。私は、他の人の執着とは異なり、人生における自由を常に真実だと考えていました。みんなが自由でお互いに干渉し合わなければいいのにと思っていました。この考えが私に影響を与えており、物事を判断する際に理性を失うようになっていたのです。

 師父の法だけが真実なのです。修煉者は大法弟子としての義務をしっかり遂行するために、人間の観念を持たずに法を学び、法に同化する必要があるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『険悪を遠ざけよう』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/10/4/466612.html)
 
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