文/オーストラリアの大法弟子
【明慧日本2023年12月11日】(前文に続く)
自己を手放す
私は、人々を救うためのいくつかのプロジェクトの有効性について、常に否定的な考えを持っていました。何年も経つと、私たちの努力してきたことのほとんどが、まったく効果がなかったように感じました。私は徐々にこれらのプロジェクトには無関心になり、翻訳したり、人々に中国共産党からの脱退を呼びかけたりするなど、より効果的だと思われる他のことをするようになりました。
毎日の法の勉強を増やし、法を暗記し、内面を見つめ、毎日五つの功法を行うにつれて、自分の修煉状態が常に向上しているのを感じました。しかし、いくつかのプロジェクトに対する私の消極的な態度が、私と地元の修煉者との間に距離を作ってしまったように思えました。法を勉強し続けるにつれて、私は徐々に自分の問題点が見えてきました。
私は法を学んで、師父がすべての大法弟子と世界のすべての衆生を心の中に抱いておられることに気づきました。師父は私たちを決して見捨てられてはいませんでした。師父は私たちに代わって業に耐えながらも、いつも私たちを励まして下さいます。私たちが大きな問題を抱えているのがわかっておられても私たちを肯定し、辛抱強く、慈悲深く、思い出させて下さいます。神は、決して私たちを軽蔑しません。しかし、私はプロジェクトにおける他の修煉者の不足を評価し、後天的な概念に自分の考えを支配させていました。私たち全体が乗り越えなければならない問題を消極的に扱いました。私は自分の修煉に問題があるとは思っていませんでした。
修煉者が利己的な精神を持っている限り、いくら修煉が向上していると思っても、自分の領域は依然として非常に限られていることに私は気づきました。
また、自分の執着と観念のせいで、私はまさに師父が『ロサンゼルス市法会での説法』で説かれた「あなたはすでに大法弟子の修煉状 態から離れ、法を実証する環境から離れようとしています」と同じであることにも気づきました。法は実証するためのものなのです。
私は自分を恥ずかしく思い、私たちを救おうとされる師父の慈悲深いご尽力に応えるべく、利己的な心を捨て、大法によって創造された正義で無私な存在にならなければならないと、自分に言い聞かせました。
師父は最近の経文の中で、「真相を伝えたから、大法の活動やプロジェクトに参加したからといって、大法や師父のために何かを行なったのだと思わないでください。師父は皆さんが救い合い、助け合い、人を救うと同時に自分自身を済度するようにさせたのです。これは末後のとき衆生が救い合っているのです。」(経文「険悪を遠ざけよう」)
この修煉形式は、師父の要求に従い、正念を持って問題を見つめ、問題があった時は無条件に内面を見つめなければならないことを意味すると理解しました。そうして初めて、私たちは不滅の体を形成し、先史時代の誓いを果たすことができるのです。これが師父の求められているものなのです。一方、困難から逃げる時は、師父の(修煉者同士でも)「互いに救い合う」という按排を拒否し、自分を向上させるのに最適な修煉環境を障害とみなしました。
このことに気付いた直後、地元の修煉環境で起こったことは、私自身をしっかりと修煉する機会となりました。
地元の修煉者たちは、人々に真実を伝えるため屋内ディナーイベントを企画しました。しかし、送付された招待状の内容などにより、同修の間で物議を醸しました。手紙の文言を変更する必要があると感じた人がいたり、招待状の内容が不適切であり、衆生済度に悪影響を与えるため、イベントを中止すべきだと考える人もいました。
うちの子もそのイベントに出演し、演技を披露する予定でした。ある修煉者から電話があり、招待状の内容が法に合致していないので、参加するかどうか真剣に検討するように言われました。
私は同修の懸念はもっともだと思い、イベントの主要な協調人に連絡をしました。私は他から聞いた意見のいくつかを説明し、招待状を変更できるかどうかを確認したいと思いました。
彼は、この出来事の背景を根気よく説明してくれました。修煉者同志の意図は、政界の要人や社会における主流派の人々に大法の美しさ(善なる一面)を伝え、公演などを通じて、リラックスした環境の中で真実を伝えることでした。たくさんの人々に招待状が送られ、多くのゲストから予約が入りました。参加を予定している多くの人々に影響を与えるため、イベントをキャンセルすることはおろか、招待状を変更することも出来ませんでした。
その夜、私は『各地での説法十』の「更なる精進を」という文中で、師父が説かれた文章を読みました。「実はいかなる人の見解も完璧なものではなく、最も優れたものではありません。大事なのは問題を提起した人、問題を解決しようとする人、または改善意見を出した人の出発点の考えが良く、行おうとすることが大体間違っていないと思えば、私たちは積極的に協力すべきです」
仲間の修煉者たちの出発点が優れていることはわかっていましたが、私が苦労していたのは、「一般的に正しい」とは何なのかということでした。この招待状には、非常に不適切な点がある様に感じました。しかし、協調人は有益とリスクを考慮した結果、イベントの開催を決定しました。全員が協力しないと決めてしまったら、イベントは成功せず、悪影響が増すだけでした。この場合、私たちにできることは、協力して、私たちの神聖な側面を他の次元で働かせ、考えられるすべての不利益な影響を排除するために、師父に助けを求めることしか出来ません。
私は、人々が一つの事柄を見る際に、一貫性があることに気づきました。しかし、覚者は異なる視点から物事を見ています。この世界のすべては、高次元の神聖なる存在によって制御されています。私たちの考えが良いか悪いか、利己的なのか無私なのかは、いずれも出来事の最終的な判断を決定する最も重要な要素なのです。
私は自分自身を手放し、より多くの衆生が参加して真理を理解できるように、正念を発することに集中することにしました。当日は、純粋な気持ちで家族や友達と行きました。イベントを企画した同修たちが、パフォーマンスの質を含め、すべてにおいて素晴らしい仕事をしてくれたのを見ました。このようなイベントを企画する上でのこの経験は、私たちにとって非常に貴重なものとなるでしょう。また、将来同じ間違いを繰り返さないように、いくつかの教訓を学びました。
実際、自己を手放してからは、自分の損得はどうでもよくなりました。私は、知らず知らずのうちに利己主義や私利私欲から離れ、一般的な意味での善と悪、善悪の判断から離れ、人間としての執着が慈悲心に取って代わられたように感じました。これらのすべては、法と偉大な師父の慈悲深い御配慮によるものです。
私個人の悟りに限りがあるため、法に沿わない点があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
(完)
(English: https://en.minghui.org/html/articles/2023/12/2/213168.html)