同修の文章「自我から抜け出す」を読んで悟ったこと
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文/中国山東省の大法弟子

 【明慧日本2024年1月13日】同修の文章の「自我から抜け出す」を読んで、深く感じたことを書き出し、皆さんと交流させていただきます。

 ちょうどこの頃、私たちの学法グループでも、「自我」という執着心を取り除くことについて話し合っていました。古い同修のAさんは、学法グループでいつも自己表現をしており、自分の観点を他人に押しつけていました。すると同修のBさんがAさんを厳しく指摘すると、もう一人の同修のCさんも同調して指摘しました。その時のAさんは、表面的には受け入れたように見えたのですが、変わることはありませんでした。学法の時も、Aさんは相変わらず自我的な発言が多かったので、修煉を始めたばかりの新しい同修のDさんまでもが彼女に反論しました。そのたびに、私はAさんに「もう言わないように」と目配せをしても、彼女はまったく無視して言い続けました。仕方なく私が、「口を修めてください!」と大声で注意すると、「そうだ、口を修めなくちゃ。ごめんなさい」とやっとやめるのですが、それでもAさんはその強い「自我」に気づくことはありませんでした。

 学法を終えて家に帰ってから、「なぜAさんは、いつも変わらないのだろうか」と考えました。今日になって、「自我から抜け出す」という同修の文章を読んで、ふと、自分も「自我」を持っているのではないかと気づきました。私は、自分が悟った理で他人を量っていたのです! 師父の法で他人を抑えているばかりで、その一方、自分自身は修めてはいないのす。

 師父は、『米国東部法会での説法』の中で、私たちに「二人の間にトラブルがあり、第三者がそれを見たら、この第三者まで自分のどこに間違いがあるのか、なぜ私がこれを見たのか考えるべきです」と説かれました。この件で、私のどんな心を修めさせようとしているのか? 他人のことばかり見ているのは修煉ではありません。私は、まったく自分を修めていなかったのです。

 同修は文章の中で、「この『自我』は、孤立されてはいけない、信用されないようではいけない、軽蔑されてはいけない、自分より優れていてはいけない、などと表現されています」と書かれていました。自分にもそのような心があり、つまり他人に傷つけられてはいけないということです。私は今日やっとその心を見つけました。この「自我」は、本当の先天的な自分ではありません。それは「私」のためのもので、まさに私が取り除かなければならないものです。どうして今まで気づかなかったのでしょうか?

 先日、ある同修が「あなたと一緒にいるとプレッシャーを感じます」と、私に指摘してくれたことを思い出しました。その同修の夫も修煉しており、夫婦一緒に学法グループに参加しています。私が発言をすると、彼らは「あなたはとても大法に則って行い、とても精進していますが、私たちはできません。あなたと比べると、私たちは何も修めていないように感じています。だから、他の同修もあなたと交流したくないと言っています」と話しました。私はそれを聞いてショックを受けました。同修に指摘されなかったら、私はまだ自分の修煉を自慢しているに違いありません。私の「自我」はとても強く、一方的に自分の観点を他人に押し付け、相手の気持ちを考えていませんでした。私はいつも自分が法に対する理解が正しく、同修を助け、同修の向上に役に立つと思っていました。しかし、結果的には同修を助けるどころか、同修にプレッシャーをかけていたのです。考えてみると、本当に自己中心的ですが、私はずっと認識していませんでした。

 Aさんの言動は、実は私に見せてくれた現れですが、私はずっと悟っておらず、内に向けて自分を修めていませんでした。師父に本当に申し訳ないと思いました。この数日、試験の問題に答えられない夢を見ており、また鍵を落とした夢も見ました。これは、自分が大法に符合していないことの啓示だったのです。「自我」に対する執着心は本当に深く隠れていたのです。今日はそれを見つけて取り除こうと決意しました。それは本当の自分ではないからです。私の先天的な本性は、「他人のため」のものです。どんな時でも内に向けて自分を探し、他人のことを先に考え、無私無我の新しい宇宙の本性を修めなければならないのです。

 師父に感謝いたします! 同修に感謝します!

 (責任者編集者:文謙)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/1/10/470743.html)
 
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