文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年2月5日】多くの古い修煉者(修煉時間が長い大法弟子を指す)が、当初ほど修煉の情熱がないと言いましたが、この点について同修と切磋琢磨していきたいと思っています。慈悲なる指摘をしてください。私はいくつかの側面が見られます。
自分を新しい修煉者と見なさなければならない
古い修煉者と接するとき、どのような気持ちになるかというと、それはただ、内に向けて非を探すことが欠けていること、しばしば自分自身を「嵐を乗り越えた古い修煉者」だと思い込んでいます。師父の教えに従って法で向上するというよりは、他人を指導することに重点を置き、監督しているかのようです。
修煉者は初めて法を学んだとき、自分のことを第一に考えず、ただもっと法を勉強したくなり、すぐに同修に頼み、自分の不足な部分やよく行わなかったところを指摘してもらうことでした。最近、知らず知らずのうちに自分を法よりも上に置く人がいます。その上、彼らは常に、私のような新しい修煉者に教えようとしている新しい用語がたくさんあり、例えば、破壊する、否定する、暴くなどです。まず、自分の内側に目を向け、それから師父の法に従って、これらをどのように行うのかを導くのではないでしょうか?
心を正しくもつべし
師父は明示しておられます。「心が正しくないとはどういうことでしょうか? それはいつも煉功者としての自覚が欠けていることです」(『轉法輪』)
苦難に耐えたくなく、良い人生を送りたいと願っている同修を見ました。子供に良い相手を見つけること、例えば相手に、裕福な家庭、思いやりのある、幸せな家庭環境、より多くのお金を稼ぐなど、常に良い人生を願っています。ちょっとした困難に遭遇したときに低迷するか、あるいは旧勢力の迫害を受けたと言います。さらに法を真剣に学ばず、低迷の中に陥ります。初めて法を得た時、業を消すという現象がないと、師父が自分の面倒を見てくださらないのではないかと不安でした。
我々は苦難を求めませんが、自分自身を修煉者であると見做さなければなりません。とても幸せな同修、いわゆる幸せな人生を送っている同修もいます。1日中、時間があるのに学法せず、たくさん寝て、食べたり飲んだり遊んだり、ケータイを見たりして、人生を楽しんでいます。これは修煉を怠けていますが、自分が迫害されていることすら知らないのです。
一切の損失を被らないようにしています。ある同修は、交通違反で2000円ほどの罰金を科せられましたが、すぐにコネを見つけ、罰金を払うことはしなかったのです。「大法弟子に罰金を科すことも迫害です」という理由をつけました。しかし、私が見たのは、彼の利益に対する心でした。
私たちが最初に法を得たとき、悪い執着をなくすことを考えましたが、今では、一部の古い修煉者は人間の幸福、得ることなどを考えています。
師父と法を100パーセント信じること
私は法を学ぶのが一番好きで、起きたらすぐ法を学び、空いた時間はすべて法を学ぶために使い、寝るときは大法の曲をかけて寝ます。通勤途中も法を聞きますが、仕事が忙しいと法を暗記できず、それで頭の中で「法輪大法は素晴らしい」と念じ続けています。ある日、本当に法の勉強のしすぎで、頭がボーっとしてしてしまい、自分の空間には何もなく、師父の法だけがあり、大法に属さないものは何も入ることができないように感じました。
師父が法で言われることは何でも行います、また法で言われたことも私にはすべてあります。例えば、師父が仰った「毛穴のすべてが目です」とあの大きな目のこと、自分にもあると思います。でも、それを体験しようとせず、法に属さないものを頭の中に入れたくないのです。私が正念を発するとき、自分の顔には大きな目を含め、体中に目が見えます。
ある時、同修数人が旧勢力がいかに悪いか、善処しなければ迫害されるのかについて話し合っていました。私は「あなたたちは複雑すぎます。私の空間場では師父の法しかありません。師父の言われることは何でもします。あなたたちはいつも旧勢力について言及しますが、旧勢力のために修めていないので、我々は旧勢力を完全に否定します」と言いました。私が単純に修めること、私の考えを同修らはとても良いと言いました。
時々、同修同士が交流するとき、お互いに指摘する不足や人心は「共産党についての九つの論評」で述べられている悪党の支配を他人に押しつけてはいけない、と言っていました。しかし、私のレベルでは、大法弟子が師父の法に基づき、指導されていると感じますが、本当に師父の説かれた通り内に向けて探し、私(し)のためではないのなら、それは他人を支配することになるのでしょうか?
この数年間の修煉の中、私は1人だけで学法してきました。かつて、常人が私にこう言いました。「もし私があなたのような経験をしたら、すでに首を吊っていたでしょう」。私も最初、悔しいとき、泣きながら叫びました。「私は李洪志の弟子です、しっかりしなければ」。業力で頭がふらふらし、これ以上、耐えられないと感じたとき、大きな手で優しく私の頭を撫でてくださったので、すぐに気分が良くなりました。その時、なぜ師父が私に正念を持ちなさいと言われたのか、疑問に思いました。 おそらく、私に「恐れることはない、師父はここにいます」と教えてくださったのかもしれません。
胸が張り裂けるような苦痛の中で関を乗り越える際、師父の写真が自動的に私の目の前に現れ、慈悲と厳粛な眼差しで私を見つめ、師父は私のすぐそばにおられました。時々、師父の説法ビデオを見ると、笑顔になります。師父にお目にかかることは本当に幸せで、とても幸運です。師父を直接見ることができる同修たちが羨ましいと思いました。あの日、私は師父の説法ビデオを見ていたところ、ビデオ・の中に直接入り、師父のお姿を見ることができました。師父が退場されるとき、私は泣きながら、心の中で「師父、行かないでください」と叫びました。
師父は「修煉していれば、いかなる事も良い事です」(『各地での説法十二』「世界法輪大法デーの説法」)と説かれました。そのため、私は毎日とても幸せです。それまで、私を苦しめたり、危害を加えたりして、私に修煉させる機会を与えてくれました。そのような私の周りの人々も救われ、良い役割を果たし、積極的に大法を学びたいとさえ思っています。
学法し、法を得る問題
私たちは法の勉強と法を得ることについてよく交流しますが、どう学ぶのか? 一生懸命学法し、本を書き写し、本を暗記する人もいます。実際、私たちが法を多く勉強するだけでなく、師父の法に従い、法の基準を満たすことが重要だと思います。私たちは毎日法を勉強し、法においてより高い悟りを得たいと常に願っていますが、どこまで達成できていますか? 私の子供も師父の法を読んだことがあり、私にこういう質問したことがあります。「あなたたちは毎日法を勉強していますが、『轉法輪』に書かれている『一人の煉功者としては、まず殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、ひたすら耐えられるようでなければなりません。でなければどうして煉功者と言えましょうか?』このことを達成できる人が何人いますか」。その時、私は何にも言い返せず、もし地面に穴があれば、潜り込みたいと思いました。
それ以来、私は師父に教えられたことをすべて一生懸命に行いました。法の中で師父は私たちに、内に向けて非を探すよう求めておられますが、何か葛藤や問題に遭遇したとき、最初に自分自身を見つめようとする人がどれだけいるでしょうか? 自分自身を向上させなければ、大法の基本的要求さえ満たすことができず、どうして高次元の法理を見ることができますか?
古い修煉者の多くは大法を30年近く修煉し、おそらく55歳を超えており、皆おばあちゃんになっています。修煉者の中には、学法、煉功と三つのことを妥協してまで、子供や孫のことを中心に考えています。それは自分自身に害を及ぼすだけでなく、子供や孫までもが罪を犯してしまう、という自覚のない人もいます。子供によい結婚相手を探し、孫の世話や孫の体調により心が浮き沈みするのも、こういう子供に良い人生などを願う古い修煉者によく見られます。
師父は「何かにこだわれば、それは執着心ではありませんか?」(『轉法輪』)と説かれました。
私は数鉢の花を育てて、あるとき、それを見て幸せな気持ちになりました。少し長くそこに留まりすぎたので、花が私に叫びました。「あなたは急いで学法してください。そうしないと、学法を遅らせた私たちに罪があります」。それでは、私たちが執着している人を傷つけることになるのではありませんか? あなたが心から人に善を行うなら、その人が法を得られるように助けてあげて下さい。
個人のレベルには限りがあり、間違いがあれば、同修に慈悲なるご指摘をお願いします。
(責任編集:文謙)