他人を修め自分を修める
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文/黒竜江の大法弟子 晓晓

 【明慧日本2024年2月27日】

 ここでお話するのは少し恥ずかしいのですが、私は法を得てから、長年修煉している古い大法弟子です。個人的な修煉に関して、長い間、回り道をしてきましたが、今、ようやく自分を修めることが少しできるようになりました。師父に多くのご心配をおかけしました。また、同修にも一時期、悪い影響を与えてしまいました。以下では、自分自身を修める向上の過程についてお話します。

 一、他人を修める 

 私は地域では比較的若い大法弟子です。法を得た当初、法を広める情熱は強く、同時に歓喜心や責任者の心も伴いました。同修に大法の本を取り寄せたり、煉功音楽のテープを録音したり、大法を広めるために企画や手配などをして、忙しく動き回っていました。そして、人生の真の意義が分かり、健康で心が軽くなり、修煉に関する事ができる幸せをかみしめ、心は充実していました。

 「7.20」の迫害が始まった後、地元の同修は、あまり積極的に外に出て活動しなくなりました。外に出て真相を伝える必要性に気づいたとき、同修の家を訪ねて交流し、経文を届け、真相を伝える方法や自分の法に対する理解を共有しました。また、私と同じ認識を同修にも持てるように私自身が法を学び、何らかの法理を理解した時、学法グループの同修にも師父の説法や経文を学ばせました。同修が家庭で何か難儀にあった時、私は同修と交流し、不足を指摘し、問題の原因は同修にあると伝えたため、大きなプレッシャーを与えていました。また、同修が真相を伝える際に、伝え方が良くないと感じた場合は、私の伝え方を教えることもありました。その結果、学法グループの同修は私に対して大きな不満を持つようになりましたが、私自身は当時、自己満足に陥っていたのでした。

 同修の私に対する意見を、最近、地元に戻ってきた同修Wさんから聞きました。Wさんは私に「みんなはあなたに対しいろいろな意見を持っている。あなたはいつも説教ばかりしてみんなに指摘をしている」。私は一瞬驚きました。どうしてそんなことを言われるのでしょうか? 私はみんなのためにやっているのに……Wさんとの交流の中で、私はようやく同修の善意と全体に対する責任感を感じました。

 家に帰ってから自分を反省し、真剣に法を学び、多くの欠点を見つけました。自我に執着し、堅持し、執着に固執していたことに気付きました。自分自身を振り返ってみると、それは何と危険なことだったのか、とても恐ろしいことです! 今までの自分は修煉者の状態ではなかったこと、傲慢で、上から目線で物を言い、正しいと思い上がり、威圧的で他人の意見は聞かず、他人の発言に反論するばかりで、まさに心より魔が生じることになっていました。

 私は瀬戸際で危険を知り、はっと悟って反省し、自分に警告しました。「言葉を慎み、周りの人や他の同修がどのように思って言っているのか、しっかりと聞いてみること」。こうして、私に傷つけられた同修Aを見つけ、心から謝罪し、Aさんも感動して涙を流しました。

 しかし、悪影響はまだ取り除かれておらず溝ができていたので、誰も私に心から話しかけてくれませんでした。私が何か提案しても、同修たちはただ無表情に笑うだけで、誰も反論しません。その後、長い時間が経ってから同修たちの声を聞いて、やっと分かりました。それは私が法を用いて、他人を抑圧していることに気づかずに発言していたため、誰も言い返す勇気が持てなかったのです。私は自分が法をよく学んでいると思い込んで、それを使って他人を批判していました。

 二、自分を修める

 去年私は、以前一緒に法を学んでいた同修Aの家でまた法を学びたいと思いました。私の提案を聞いた同修は喜んで受け入れました。私たち3人で法を学びましたが、Aさんは私に対して警戒心を持っているようで、あまり私と話したがらないようでした。同修に与えた傷が深刻すぎたと反省しました。私はまだ多くの人心を持っているので、自分の姿勢をもっと低くし、同修と真摯に交流し、自分の欠点を認めなければなりません。

 悟ったら、実践しなければなりません。すぐにAさんを訪ね、ソファに座り、当時、私がどのような行動をとって、学法グループに混乱をもたらしたのか、自分の欠点について誠実に話しました。Aさんも私の誠意を感じ、本音を話してくれました。当時の私の行動はあまりにも過激で、彼女たちは受け入れられず、反論する勇気もなくなったそうです。その後、Aさんたちは私を批判するための記事を書き、Wさんに内容チェックを依頼しました。しかし、Wさんはそれを明慧ネットに投稿することを止めさせ、ほかの同修たちに心の内面に向かって探すようにと助言しました。Aさんたちも自分の問題に気づき、自分自身を修めるべきだと考えたと言いました。今日までこの出来事を知らなかった私にとって、かなりの衝撃でした。当時の学法グループが私の発言によって、どれほど心を乱されたのかを想像することはできません。このAさんとの交流を通じて、大法の慈悲のエネルギーを感じました。

 ある日、Aさんの家で同修Sと出会いました。Sさんは私に対して不満を持っており、私を軽蔑しているようでした。私も自分を省みましたが、以前私もSさんを見下していた可能性があり、悪い物質が形成され、業に報いられているのかもしれません。今は、同修の長所や利点を見ることが重要だと理解しています。しかし、Sさんは私に対して直接批判を浴びせ、外に目を向けていることや犯罪(法に照らした考えではない)などを非難しました。実は、彼が私を非難する前に、私は自分の欠点をすでに話していました。それでもまだ彼がそのようなことを言うなんて、本当に我慢できません。しかし、私は感情を表に出すまいと、ぐっと堪えました。その時師父の説法を思い出しました。「しかし修煉している人は、今の段階で要求に達することができなければ、やはり少し抑えて我慢したほうがよいでしょう」(「ヒューストン法会の説法」)

 この最初の一歩は我慢して何も言いませんでした。しかし、その後、別の同修Dからも、私は昔からこうで、指摘しても改善しなかったと言われました。まさに火に油を注ぐようなもので、発言がエスカレートしていくと私の顔には少し不自然さが見られました。帰宅後、数日間、心が乱れたままで、やはりこの難儀を乗り越え難く感じました。しかし、私は自分自身を向上させるべきだ。これらはすべて良いことであり、私の心を修めるために用意されたことだと理解しました。

 数日間、法を学び、内に向かって探すと、同修との交流を通して、さらに自分の心を見つめました。私は、怨恨心や闘争心、嫉妬心が現れていたことに気づきました。また、良い言葉を聞きたがり、良くない言葉には耳を傾けたくないという心が働いていることを理解しました。これらは本当の私ではなく、正しい念(正念)を発して、これらの悪い心や考えを取り除くべきです。

 師父が私の心の状態をご覧になって、早く向上させ、法を正す流れに追いつくように助けてくださっていることだと悟りました。これらの同修も皆、私を助けてくれています。

 今朝、Aさんの家で法を学んだ後、私たちは互いに心を開き、正直な気持ちを伝え合うことができました。

 以前、彼女が言わなかったのは、私が他人に否定的なことを付け加え、不必要な魔難を引き起こすことを恐れていたからです。今では口を修める重要性が分かりました。無駄口を減らし、口を開けばすぐに批判や愚痴を言うべきではありません。

 家でも大きな声で話すことはなくなり、家族と相談しながら話すように心がけています。理不尽な扱いを受けても、黙って耐え、最善を尽くします。そして、相手の立場に立って考え、寛容と尊敬の念をもって接します。

 理性的に考え、党文化的な(中国共産党の)思考習慣を排除し、あらゆる事象を画一的に処理することがなかなかできません。大法では、様々な悟りが必要です。今、私は冷静になることができ、決して油断したり、外部に目を向ける魔性を放任することはできません。常に自分を修めることこそが真の修煉と言い聞かせます。正念を発し、外部に目を向ける習慣を取り除きます。また、同修に送り出したネガティブな物質的要素を一掃するためにも正念を発します。すべてを徹底的に排除し、解体します。

 私たちは一体であり、互いに正念で助け合います。邪悪な要素はどこにも隠れる場所がありません。全てが消し去られます。

 以上は、私の現在の次元での理解です。不適切なところがありましたらご指摘ください。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/2/17/473152.html)
 
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