神仙の物語:董奉と「杏林春暖」の典故
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「杏林春暖」は中国の典故で、仁義や人情に基づく感動的な物語です。

編集/欧陽子雲 

 【明慧日本2024年4月12日】董奉(とうほう、三国時代の名医)は候官県(現在の中国福建省福州付近)の出身です。三国時代、呉の先主(孫権)の治世のある年、ある若者が候官県の官吏として任命されました。彼は董奉を見かけた時、董奉が40代で、修道者であることを知りませんでした。その後、この若者は職を解かれ、候官県を去りました。50年以上が経過し、彼は別の職務に任命されました。公務で候官県を通過する際、昔の同僚が皆老いているのを見て、董奉だけが全く変わらず、50年前と同じように見えました。彼は董奉に「貴方はすでに道を得た人ですか? 昔あなたを見たときも、今見ても同じですが、私はもう白髪が生えてしまいました。どうしてでしょうか?」と尋ねました。董奉は「それはたまたまのことです」と答えました。 

 交州刺史(刺史:前漢から五代十国時代までの監察官の官職名)の杜燮(としょう)が突然の重病に倒れ、三日も経ってから亡くなりました。ちょうどその頃、董奉は交州に滞在しており、この出来事を知ると、杜燮のもとを訪れました。董奉は亡くなった者の口に三つの錠剤を置き、口の中に水を流し込み、そして誰かに亡者の頭を持ち上げさせ、薬が溶けるように揺らしました。しばらくすると、杜燮の手足に動きが見られ、顔色も戻ってきました。半日後には起き上がり、四日後には話すことができるようになりました。

 杜燮は回復後、次のように語りました。「私が死んだときは夢の中にいたようでした。黒服の人たちが十数人やってきて、私を車に乗せて連れて行きました。車が大きな赤い門に入ると、彼らは私を牢獄に投げ込みました。牢獄には一つずつの小さな部屋があり、一つの部屋に一人しか入れませんでした。私を一つの部屋に閉じ込めた後、彼らは土で扉を塞ぎ、中は真っ暗で何も見えませんでした。その時、突然、外で太乙真人(たいいつしんじん、『封神演義』に登場する仙人)の使者が私を呼び出しに来たという声が聞こえ、しばらくしてから土を除いて出してもらいました。すると、赤い傘がかかった馬車がおり、中には三人の人が座っていて、一人が符を持ち、私を呼びました。家の前まで馬車が私を連れて行くと、私は意識を取り戻し始め、すぐに完全に目覚めました」

 杜燮は董奉に感謝し、どのように返礼すれば良いか尋ねました。そして、董奉のために庭に一軒の家を建てて奉仕しました。董奉は他の食べ物を食べず、干し肉と干し柿を少量食べ、わずかに酒を飲みました。杜燮は董奉に一日三食の肉、柿、そして酒を供えました。董奉は鳥のように現れては食べ、食べ終わると飛び去り、誰もその出現に気付きませんでした。これが1年以上続き、董奉は杜燮に別れを告げました。杜燮は董奉を去らせたくなく、泣きながら引き留めましたが、董奉は去りました。杜燮は董奉にどこへ行くか尋ね、大きな船が必要かどうか尋ねました。董奉は「船はいらない、棺桶だけ用意してくれればいい」と言いました。杜燮は董奉の要望に従い、棺桶を用意しました。翌日の昼、董奉は亡くなりました。杜燮は董奉を埋葬しました。七日後、容昌からの人が杜燮に董奉からの伝言を伝えました。「董奉はあなたに感謝し、あなたが自分を大事するよう望む」と。杜燮は董奉がまだ生きていることを知り、墓を開けると、中にはただ一枚の絹がありました。絹の片面には人の形が描かれ、もう片面には朱で符が描かれていました。

 後に、董奉は余章に戻り、廬山に定住しました。ある時、ある人が高熱にかかり、死にかけていました。その人は誰かに車で董奉のもとに連れて来られ、命を救ってくれるよう董奉に懇願しました。董奉は病人を一室に座らせ、五層の布で彼を覆い、身動きしないようにしました。病人は後に語りました。「最初は何かが体を舐めている感じがし、その痛みで我慢できなかった。その舌は一尺以上も幅があり、牛のような息をしていた。何の動物か分からないが、長い間舐められていた」。董奉は布を取り除いた後、病人を洗い、洗い終わったら家に帰すようにしました。病人が帰る際、董奉は「すぐに良くなるだろう。風邪を引かないように気をつけなさい」と言いました。十数日後、病人の体全体が赤くなり、皮膚がすべて剥がれ落ち、痛みが我慢できなくなりました。痛みを和らげるにはお風呂に入るしかありませんでした。20日後、病人の体に新しい皮膚が生え、肌は滑らかで、凝脂のように白くなりました。

 董奉は山間に住み、田畑を耕さず、日々多くの人々の病を治療し、一文の報酬も受け取りませんでした。ただし、彼に治療された重い病人には、五本の杏の木を植えるように求められ、病状が軽い場合は一本だけ植えるようにしました。多くの年月が経過し、彼は何千人もの病人を治癒し、植えた杏の木は10万本以上に達し、森を形成しました。彼は山中の鳥獣を杏の林で遊ばせ、杏の林を管理させました。杏の木の下には雑草が生えず、まるで誰かが雑草を掘り起こしているかのようでした。後に、杏の木は果実をつけ始めました。杏の果実が熟すと、彼は杏林の中に倉庫を建て、人々に「杏を買いたい人は、倉庫に谷物を一缶入れて、その代わりに杏を一缶持って行けばいい。知らせる必要はない」と告げました。時々、人々はわずかな谷物でより多くの杏を交換し、その時、杏の林の一群の老虎が吠えながら追ってきます。その恐怖により、欲深い人々は急いで逃げ出し、缶の中の杏がたくさんこぼれます。家に帰ると、残っている杏はいつも送った谷物とちょうど同じ量だけです。杏を盗む人々に対して、老虎はその家にまで追いかけ、杏を盗んだ人を噛み殺します。死者の家族は杏を盗んだことを知り、杏を董奉に返し、頭を下げて謝罪します。董奉は死者をよみがえらせます。董奉は毎年、売られた杏から得た穀物を全て使って貧困者や旅行者に対して援助し、年間で2万石の穀物がこのように提供されました。

 ある日、董奉は雲の中に昇り、道を得て仙界に去りました。董奉は人間界に300年以上住んでから仙界に去りました。去る際、彼の容貌はまだ30代の若者のようでした。

 【後記】仙界に昇っていった董奉は、三国時代の張仲景、華佗と並んで、「建安三神医」と称されました。この文章に記された董奉が病を治療し、一文の報酬も受け取らず、ただ病家に杏の木を植えることを求め、杏を売って得た穀物で貧困者を支援する姿は、後世に尊敬され、今日まで伝えられています。そのため後世は、「杏林春暖」、「誉満杏林」という言葉でこの良医の美徳を称えるようになり、「杏林」は我が国の古代医界への賛辞となりました。伝えられるところによれば、現在でも江西省九江市には董氏の行医所があり、杏の木が植えられています。

 「杏林春暖」の典故と並んで、人々を救済するために道を行った中国の古代医学の2つの古典的な故事、「橘井泉香」の故事も、中医学の信奉者によって称賛される治療と救助の道徳的な基準です。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2003/1/2/42063.html)
 
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