人の思考から抜け出す
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 【明慧日本2024年4月14日】人の思考のなかには、人間の状態を形成する観念と執着があります。40歳になる前、迷いの中で多くの固有の硬直した観念と執着が刻まれ、生涯の業力と相まって、法を得る前に、私の心身はすでに崩壊寸前に達していました。法を得たチャンスにより、長い間封印されていた汚れた世間で、師父が私を見つけてくださったことは、とても困難なことだと心に刻んでいます。長い間放浪していた命がやっと目覚め、私の誓いは師父から離れないこと、大法から離れないことです。 

 一、神に向かって歩むために、人心から離れる

 実家にいた時、両親は私に奇形教育を施しましたが、これは中国社会では実際によくあることです。中国社会では中国共産党の支配が始まった当初、階級闘争が行われ、人々はさまざまなカテゴリーに分けられ、地主、富農、中農は社会から差別されていました。父の家系は良くないのですが、気性が荒く、凶暴で、人を殺して償うこともせず、世の中で殺していいものはあえて何でも殺していました。その後、大法修煉に入った後、殺生の業力が大きすぎて、修煉で自分を厳しく要求することができなかったため、病業の状態を脱することができませんでした。

 小さい頃、父母はよく喧嘩をしていました。6人兄弟の私は長女で、次第に両親からいつも殴られる対象になりました。父は母を殴った後に私を殴り、母も溜まった鬱憤を晴らすために私を殴りました。家の中で何かがなくなると、私が誰かにあげたのだと決めつけられ、誰かにあげたことを認めさせるために殴られました。もし認めなければ、私は死ぬほど殴られることになりました。食事をするとき、私は地面に立たたされ、両親と兄弟はテーブルを囲み、これを取ってあれを取って、水を飲みたいなどと指示されます。彼らの言われた通りにやらないと平手打ちされたり、スプーンや箸で叩かれました。父は良く、私が反動的で、叩かなければ直らないだろうと言っていました。4、5歳の頃、父に道で追いかけられて殴られ、通りすがりの人たちに叱られました。小学校1年生の時、先生に文句を言われ、父は私を部屋の梁に吊るして、ベルトを鞭にして打たれました。もう少し大きくなってからは、「死んでみろ」とよく叱責され、死に方を教えられました。ときどき近所の人が私を見て、あの両親の子ではないと言いました。当時の私の心には大法がないので、なぜこのような扱いを受けるのか、わかりませんでした。

 両親を満足させるために、小さい頃は弟妹の面倒を見たり、家事を必死に行ったりしましたが、それでも両親は満足できないようでした。次第に恐怖心、依存心、恨みの心、言い争う心、劣等感、虚栄心、面子の心などが芽生えていきました。恐怖心は、人と話す勇気がない、話せない、いつ災難が降りかかるかわからない、理不尽だと相手を責めるという形で現れました。そして、自由にならない無力感を感じました。怒りのあまり、優秀になって実績を作って見せたいと思い、名声と冨への欲望が生まれました。

 性格も歪み、結婚してからは家庭でも職場でも魔性が現れました。形成した人心と観念のなかで、法を得る前に多くの業力を作りました。肉体的、精神的状態は崩壊寸前にまで達しました。大法がなければ、私は今日まで生きることはできなかったでしょう。

 私は22歳の時、家族の中でただ一人、自分の努力で進学し、仕事を任されました。このことは彼らに栄光をもたらし、私の人生をより良いものにし、それ以来、名声と富を求める心が強くなりました。家庭を持った後、形からいうと、両親から受けた弊害を取り除きましたが、歪んだ性格のため、普通の人が持つべき思考を失いました。肉体的、精神的な苦痛のため、安易な心、名声や利益を追い求める心、苦しみを恐れる心、良い人生を送りたいと思う心を持つようになりました。

 大法を修煉してからは、それまでの苦しみはすべて私が背負ってきた業力であり、このように業力を解消しなければ大法を得ることはできないと理解しました。道理は理解しているのですが、形成した観念や執着を手放すのは難しく、骨の髄まで浸透しているようです。

 人に会っても話す勇気がなく、話すと震えてしまうので、大法を得てから迫害の真相を伝えることはとても困難でした。物事に出会って最初に考えることは、マイナス思考で、恐怖心、恨み、面子、劣等感、他人から見下される恐れなど、とにかく執着心ばかりでした。さらに、これらの観念や執着を意識できなくて、人の状態は人の思惟を強めたので、とても苦しみました。

 大法を学ぶことで、すべての苦しみは偶然のものではないことは理解できたのですが、しかし、習慣的な考え方や観念や執着を変えることは、とても難しく、私にはどうすることもできませんでした。最初の頃、師父が私を浄化してくださるときは、心の大部分を取り除いてくださいました。しかし、私自身を修めるべき部分はとても難しく、特に父への恨みを捨てきれなかったときは、何度も回り道をしてしまいました。父を見ると震え上がり、声をかける勇気もありませんでした。同修からは「どうしてそんなにお父さんを怖がるんだ」と言われました。他の人は私の状態が異常だと一目でわかるのに、私は何も言えませんでした。恐怖を押し付けているのが自分ではないことも分わからず、それを取り除くのはとても大変でした。

 父に法輪大法の真相を伝えた時、私は死ぬほど怖かったのです。2006年、父は病気の最中に「法輪大法は素晴らしい」と叫び、奇跡的に生き返りました。5年後、父は心性を守らなかったため、再び病気が現れました。私が近づくと叱られ、助けてあげられなかったことを後悔しました。父は死ぬ間際に師父に懺悔して法輪を見せられ、その時初めて「修煉が足りなかった」と後悔しました。父が亡くなったことで、父に対する恐怖心はなくなりましたが、その恨む心は隠れていました。恨みを主動的に取り除く環境を失い、もう恨みはないと思い込んでいました。その後、病業の状態になり、内に向けて探しましたが、父に対する根深い恨みを見つけることはできないままでした。

 学法し、修煉し、内に向けて探し続けるうちに、次第に利己のため、自分のためであることが分かり、それが生命を堕落させる根本原因であることがわかりました。生命としての私は、私利私欲の道を歩み過ぎたので、天国に帰る力がなくなり、生まれ変わる希望を持ち、罪や業を軽減するために他人の助けが必要なのです! おそらくいつかの人生? でも、親に借金をし、危害を加えすぎたのでしょう。輪廻転生の迷いの中で、自分がどれだけの役柄を演じ、どれだけの命を傷つけ、どれだけの悪事を働いたかわからないのです。被害者の立場から見れば、借りを返すのは天の掟だから、恨んではいけません。今日、宇宙大法を得ることができる幸せに比べれば、すべての苦しみは取るに足らないものです。

 私の人生の本質は、大法弟子として修煉することなので、旧勢力が人間の極端な思考につけ込み、勝手に消滅しようとする破壊的な策略がここにあります。しかし、大法弟子の思考は人間の段階に留まるものではありません。人間の観念や執着を見つける修煉への旅の始まりです。人間界のすべての道理は反理であり、反理のなかでの正理は、人間界の苦難に耐えて執着を見つけることです。そう考えると、人生には感謝しかないのです。師父の慈悲深い按排に感謝し、人生の道で出会ったすべての人や事象に感謝します。心にはもう恨みがなくなりました! 自分の考え方を変え、執着を修めることで、真に他人のための人生になることができます。人間界に身を置くことは、人の執着を手放せないのです。

 二、心性を向上させ、修煉に入る

 師父は「正しきは彼 過ちは私」[1]とおっしゃいます。

 この段落の法について、自分自身を強制的に認めさせました。私が正しいと思う時、私は憤慨し、本当に魔性の傾向が現れましたが、自分自身を強制的に「正しきは彼 過ちは私」と念じました。数回念じたあと、私は突然落ち着くようになり、環境も落ち着いているので、静かに欲望と執着を見つけることができました。

 修煉とは、自分の思想を修めることであり、だんだんと法理に従い問題を考えていきました。例えば、あの人や家族、夫の言うことが道理に合わない、理不尽だと思った時、最初は心のバランスが保てなくなり、何が正しくて何が間違っているのか議論したくなり、その結果、対立がどんどん大きくなりました。彼(彼女)に対し理屈を見つけ、決着をつけようとすると、それが人間の理屈であることに気づき、私は人間の考え方になっていました。師父は「なぜなら業力が誰かのところに落ちていれば、その人は必ず辛い思いをするからです」[2]と説かれています。確かに業力は彼に降りかかり、彼は私のためにそれを背負い、私の業力を消滅する手助けをしてくれているので、彼に同情し、慈しむべきだと思います。同時に、それは自分をうまく修めていないからであり、邪悪につけこまれる執着心があるからであり、私が他人を苦しめているのだ、私が他人を傷つけているのだと考えました。このように考えると魔性的な思考がなくなり、心の底から他人の苦しみを和らげ、自分の非が認められました。私はもう謝罪することで頭がいっぱいになりました。

 三、発正念で自分の思想を清める悟り

 発正念の5分前に自分を清める時、関連する法を機械的に暗唱することが多く、深い意味合いに気づくことができず、時にはふらふらと人間的なレベルで暗唱することもありました。

 ある日、砂漠を歩く修行をしていた人の話を聞きました。砂漠を歩いていたにもかかわらず、彼はとても幸せな気分でした。なぜなら、彼は神が自分とともにいることを感じ、自分は一人ではなく、心の中の神が自分とともに歩いていることを知っていたからです。振り返ると、彼の後ろに2列の足跡があり、それが神と共に歩む足跡だとわかりました。その後、難関に直面した時、彼にとってそれは非常に困難なことで、それを突破できるかどうかわかりませんでした。彼は神に答えを与えてもらいたいのです。まだ神の足跡が残っているのではないかと振り返りましたが、彼が見たのは深い足跡の1列だけでした。彼は心の中で、神はもう自分のことを気にかけていない、神は苦しみの中で自分を見捨ててしまったのだ、と訴えました。あの深い足跡の列は、歩くのに苦労している自分自身だと思い込みました。しかしその時、神は彼の耳元で「あなたを背負って歩いているよ」とささやきました。

 この話を聞いた時、私は涙を流し、師父を信じていないというマイナス思考に触れました。法に従い、思想と物質は一体であることを知っています。このような悪い考えがあるから、このような難関ができる物質があるのです。師父は彼を背負い、生命として、自分の苦しみだけを考え、師父の償いに感謝しないとは、なんと心が狭いことでしょう! これは、生命が悪い思想を持つために生じる業力ではないでしょうか。

 師父は私たちをあまねく救い済度するのではなく、苦心して済度しているのだ、と言った同修もいます。同修がどの次元に立ってそう言ったかにもかかわらず、私たちの現在の修煉状態は、本当に師父に多くの迷惑をかけ、受けるべきではない多くの苦しみを受けているのです。もし、修煉者が率先して、自分の間違った考えを直さなければ、弟子のために師父が苦しみを背負うことになります。砂漠を歩いている修行者は、もしこのような考えを持っていなければ、このような難関と魔難を抱えていたのでしょうか?

 すると、頭の中でよくない考えを取り除いている時、突然落ち着くことができました。真面目に取り除いたことで、私の考えはすべて大法により修正されました。その悪い思いは、師父が法を正すことを邪魔するものです。大法によって自分を清めた後、邪悪を取り除く力はより大きくなりました。

 以上は、この一年で悟ったことです。間違っているところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是 誰が非」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/2/12/471679.html)
 
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