文/黒竜江省の大法弟子
【明慧日本2024年5月31日】私は農村の出身で、48歳です。1999年7月に法輪大法の修煉を始めました。前半生を振り返ってみると、山あり谷ありで、何度も死に直面しました。私が死を待っていた時、師父が私を苦海から救ってくださいました。
一、「母親の実の子じゃない」
私は4人兄弟で、父と母は健康状態が悪く、経済的には困難で、1カ月の中で何日かはご飯をお腹いっぱい食べられませんでした。年中、正月にしか細粮(白米やコムギ粉のことをさす。粗粮はトウモロコシ・コウリャン・アワ・マメ類などをさす)を食べられませんでした。貧困のため、私は小学校5年生で学校を中退しました。
私は女の子なので、母に嫌われていたため、私も母が嫌いでした。父は唯一の精神的な支えでした。1991年、洪水があったとき、父は人を助けようとして溺れてしまい、亡くなりました。その知らせを聞いたとき、私は天が落ちたような気がして、飲み食いをせず、父について行こうと思いました。父の葬儀の後、皆は私に「あなたがこのような状態だったら、父はあの世で安心できないよ」と説得していました。私は生きていても意味がないと思って、「その日暮らしをしようと」と思いました。
父が亡くなった翌年、姉も大腸がんで亡くなったのです。
大法を修煉する前、私は3度も交通事故に遭いました。その中でも最悪だったのは、自転車に乗っていて、大型トレーラーに衝突されたときのことでした。自転車は横転して大破し、私は自転車と共にトレーラーの下敷きになって、10メートル以上引きずられました。着ていた革のジャンパーも破れ、腕、背中が擦り切れ、血のついた傷口には砂粒がついていました。事故後、左胸郭の神経を損傷しましたが、痛みを感じなかったのです。
ある日、銭湯に行ったとき、垢すりの人に肋骨に腫瘍がいくつかできているのを見つけられて、手術することを勧められました。「生まれてから、幸せを感じる日があまりないので、もう死んでもいい」と思いました。当時20代だった私は、もう十分に生きてきたと考えたのです。
私の一番下の姉と友人は、私のことを不憫に思い、私の手術のためにお金を用意してくれました。万が一私が死んだら、友人が巻き込まれるのではないかと心配だったので、私は友人を家に呼んで、母に「もし私が死んでも、友人のせいにしないでください」と言いました。しかし、母は私のことを心配するどころか、「酷い人はこのような病気になるのよ」と、冷たい一言でした。それを聞いて、一番下の姉と友人はその場で大泣きをしながら、私に「あなたはきっと、母親の子じゃなくて、拾った子なんだよ」と言いました。
手術後は適切なケアを受けられず、栄養も追いつかなかったため、切開した傷はなかなか回復せず、傷跡は増殖し、やがて硬いしこりになってしまいました。
交通事故と手術が重なり、私の健康状態は悪化しました。咳と発熱を繰り返し、次第に開放性肺結核になりました。感染症専門病院にしばらく入院して、医者から「もう治療する価値はないし、お金もないでしょう。自宅で療養したほうが良い」と言われました。
二、「法輪功を学ばせてください」
親戚になる姉が可哀そうな私を見て、私を自宅に連れて行ってくれました。姉の家は経済的に裕福だったので、姉は私をあちこちに連れて行って治療を受けさせてくれました。私はさらに、敗血症と診断され、医者からは「治療する価値はほとんどない」と言われ、姉は死にそうな私に「願うことがあれば、叶えてあげる」と言いました!
私は一日中ベッドに寝たきりで、寝室から3、4歩しか離れていないトイレまで歩くこともできず、姉に抱えられながらトイレに行くことしかできなかったのです。昼も夜も、体の痛みで眠れず、すごく眠くなっても、少ししか眠れなく、痛みで目が覚めるのです。1日が1年のように長く感じいつも痛みに苦しみ、ベッドに横たわったままかすかな声を出すことしかできなかったのです。
姉の勤め先の同僚が私の状況を知って、姉に「この子がこんな状態になって、治療も効かないなら法輪功を修煉させてあげてください。法輪功を学べば、お金もかからず、この子は元気になるよ」と言いました。そして、姉さんは私に師父の説法の録音を聞かせてくれましたが、私は体の痛みでイライラしていたので、全く聞くことができなかったのです。数日後、私は、声も出なくなっていました。姉は何が起こっているのか分からず、怖くなって、私に説法を聴かせることをやめました。
不思議なことに、説法を聞く前、私の健康状態は日に日に悪化していましたが、師父の説法を聞いてから、私の病状は進行せず、その状態のままでした。1カ月後、姉の同僚が来て、姉に「これは彼女が法輪大法を得ることを邪魔していることだ。もう一回聞かせてあげてください」と言いました。姉は同僚の話を信じて、私に説法を聞かせ続けました。私は動くことも話すこともできず、毎日横になっているだけだったので、ただ説法を聞いていました。
いつの間にか、姉は法輪大法の功法を学び始めました。私の健康状態も少し良くなっていき、居間に移動できるようになりましたが、私はまだ毎日薬を飲んでいて、小鉢の中に薬を入れていました。
ある日、姉が煉功しているとき、私はソファーから頑張って立ち上がり、姉の後ろに立って姉の動作を真似しました。しかし、痛みに襲われ、疲れたので、もう持ちこたえることができず、座って休みました。少し体力が回復すると、また必死に立ち上がり、姉の真似をしました。1時間の動功で、私は十数分練習しました。北国の冬で、綿のパジャマを着ていましたが、、激痛のために絶えず汗をかき、綿のパジャマはまるで水で洗ったかのように濡れていました。功法が終わると、痛みで立っていられなくなり、ソファに横になりました。
師父は「『佛性がひとたび現われると、十方世界を震わす』という言葉があります。覚者がそのような人を見ればひとしく救いの手を差し伸べ、無条件に助けてあげようとします」(『轉法輪』)と説かれました。
師父は私が煉功したいという心を見て、私を助けてくださいました。約2時間後、私は突然我に返り、大声で叫んだのです。姉は驚き、「そんなに大きな声を出して、痛いの?」と聞きました。なんと、私は急に体の痛みを感じなくなりました! 長年、痛みがないという感覚がどういうものなのかわからなくなっていて、痛みを止めるために毎日「パラセタモールとコデイン錠」を飲んでいました。長年、死に瀕しているかのようで、痛みに苦しみ、まるで暗闇の世界で死の到来を待っているかのように生きていました。この瞬間、光が私を照らし、生きる希望が見え、私はついにこの日を迎えることができました! すべてが夢の中の出来事のようで、びっくりするあまり、信じられませんでした。以前と同じようなことになるのではないかと、夢から覚めるのが怖かったです。
その後、毎度煉功するたびに、耐え難い痛みに耐えていました。しかし、奇跡的に煉功後は、体のどこも痛くなくなり、静功では両足が組めず、縄で足を縛って組んでいました。
三、「変化」
もうひとつ奇跡的なことがあります。体に手術の跡がまったく残っていないのです。
法輪大法を修煉した後、心性の向上につれて、母に対する怨恨の心が消え、慈悲の心に変わりました。私の身に起きた奇跡を見て、母も法輪大法を修煉し始めました。
第25回「世界法輪大法デー」の際に、師父の慈悲と救い済度に感謝し、私自身の体験を書かせていただきます! この文章を読む機会があるすべての人が、法輪大法の良さをより深く知っていただくことを願っています。
(明慧ネット「513」法輪大法デーの入選文章)