文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年6月3日】私は1996年に法輪大法の修煉を始めました。「真・善・忍」の法理に従って修煉し、師が法を正すことを手伝いながら成長してきました。第25回法輪大法デーにあたり、師父の偉大な慈悲に対する限りない感謝の気持ちを表すために、私自身の修煉体験をいくつか書きます。
体得を時系列に沿ってお話します。法に則っていないところがあれば、同修のご指摘をお願いします。合掌。
1997年の初め、修煉を始めて2、3カ月の頃、私は会社である同僚に、多くの同僚の前で何の理由もなく平手打ちをされました。そのとき、私は辛かったのですが、すぐに自分が修煉者だと我に戻りました。「修煉者なら、常人と争うことなく、他人に親切にするものだ」と頭に浮かべ、落ち着いてから、私から彼に「ごめんなさい」と謝りました。その後、その同僚は辞職して去っていきました。おそらく、私が報復するのではないかと心配したのだろうと思います。
その後、人から嘲笑されたり、不当に非難されたりする出来事にも次々と遭遇しましたが、私はただ笑い飛ばし、心は淡々として動じませんでした。
師父は「では今後の人生においてどうやって修煉するのでしょうか? われわれはそれらのことをすべて取り除き、そういうことが起こらないようにします。断っておきますが、本当の修煉者にしかこれをしてあげられません」(『轉法輪』)と説かれました。
1998年、私は仕事中に片方の目に飛んできた鉄の粉が入り、目が真っ赤に腫れ上がって何も見えなくなりました。そのとき私は、「もし、自分の業力によるものであるならば、たとえ目が見えなくなったとしても恐れることはない。絶対に修煉の道を進んで行く」と考えました。その結果、私の目は数日で治りました。「師父が私を守ってくださったのだ」と悟りました。
2000年、私は北京に行き、法輪大法への迫害を停止することを求めましたが、連行され、地元に送還されました。それから、地元の国内安全保衛部門の警官は、私の家族や親戚を呼び出しました。 叔父、兄弟姉妹がみんな来ました。しかし、私は、「たとえ、親族の関係が切れても、法輪大法を止めることはしない」という非常に単純な考えを持っていました。その結果、警官の前で、家族や親戚の誰も法輪大法の悪口を言わなかったのです。
2002年、私は労働教養所から出所したとき、漸悟の状態になっており、天目が開いていました。目を開けたまま、ほかの空間を見ることができました。天上の神は私に「あなたはすでに個人的に圓満しました」とおっしゃいました。佛、道、神が私を迎えに出てきたのを見ました。10代の子供のような男の子が体を清浄にして、10フィートの黄色い布で身を巻いて空に飛んで行きました。若い僧侶の様子でした。
師父は「修煉者が経験する試練は、常人にはとても耐えられないもので、歴史上、修めて圓満成就できた人はほとんどいませんでした。人間はしょせん人間であり、肝心なとき、なかなか人間の観念を放下し難く、かえっていつも何らかの口実を設けては自らを納得させようとしています。ところが偉大な修煉者とは、すなわち、重大な試練の中にあって自我を放下し、さらに一切の常人の考えを放下できる人です。わたしは、圓満成就できるかどうかという試練を乗り越えてきた大法の修煉者へお祝いの意を表します」(『精進要旨二』「位置」)と説かれました。
振り返ってみると、私は法に対する深い理論的な理解を持っていませんが、師父が『轉法輪』で「心性の高さは功の高さ、これは絶対の真理です 」と説かれているように、高次元の法についての理解は心性の向上から来ることを深く知っているからです。私が申し上げたいのは、実は修煉というのは非常に簡単なことですが、師父の説法の通りに行うことができるかどうかという問題は、自分が考えるべきことです。心性が上がれば、功が上がり、衆生を救う済度の能力はさらに大きくなります。
法を正す修煉において、私は旧勢力のことを考えることはほとんどなく、大法弟子(修煉者)として社会的な仕事や生活の中で、いかに自分を修めるかだけを考えています。私は2002年から真相資料を作り始めましたが、自分の持っている技術的な知識はすべて師父からいただいたものであり、それを多くの同修に保留なく全部伝えるべきで、そうすれば、資料点と学法グループが「いたるところで花を咲かせる」ようになると私は理解しています。そこで、私はこのように一歩一歩修煉してきました。師父は「旧勢力そのものをも認めないことになります」(『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」)とおっしゃいました。
もちろん、自分の受け持つべきでない魔難に対するものですが、非常に大きな魔難は、正念を持って取り除かなければならないと思います。
(明慧ネット「5.13」法輪大法デーの入選文章)