文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年7月4日】私は1998年から修煉を始めた大法弟子です。この20年余りの修煉体験を師父に報告し、同修の皆さんと交流したいと思います。
1998年の春、妻は病気治療のために法輪大法の修煉を始めましたが、一週間ほどで大きな変化が現れました。今までの痛みもかゆみもなくなり、以前と違って毎日元気で、いつもにこにこしています。以前病気に苦しんでいた時の顔は、暗雲が消え去ったように明るくなり、家族は長い間失っていた喜びを取り戻しました。
妻の変化を見て、私は不思議と驚きで、法輪功が一体何なのかを知りたくなりました。ある日、私はこっそり妻の後について広場に行ったところ、人々が静かに座禅をしているのを見ました。穏やかな音楽が流れていて、私はとても心地よく感じました。
私のそばにいた白髪のおばあさんが、他の人に法輪功を紹介しているのを聞き、「この功法は今まで知っていた他の気功と違う!」と感じました。ちょうどその時、ある人がおばあさんに「本を買いたい」と言っていたので書名を見ると『轉法輪』と書いてありました。私もすぐに、12元を払って一冊買いました。
家に帰って読んでみると、すぐに夢中になりました。本の中に書かれたのは、すべて正しい理であり、すべて良い人になることを教えていると感じました。それから私は大法を修煉することにしました。
一、師父を信じ、奇跡が現れた
私が修煉したばかりのころ、会社の経営は悪く、給料も出せず、事実上の失業状態が続いており、もうすぐ2年になるところでした。小さな商売をしていても、収入が安定せず、生活はとても苦しかったのです。義弟は衣料品の商売をしていて、武漢に仕入れに行った時に災難に遭い、私に「手伝いに来てほしい」と頼みました。武漢の夏は「ストーブ」と言われるぐらい暑く、費用を節約するために、私と義弟は2人で1つの小さなベッドに寝るしかなく、寝返りも打てない状態でした。その数日、私は毎日お腹が痛くて大変でしたが、我慢して少しも文句を言いませんでした。
武漢から家に帰ると、腹痛がさらにひどくなり夜眠れず、びっしょりと汗をかきました。「私には病気がない。痛みが治まると良くなる」と思って、ひたすら我慢していました。
妻が私に座禅をするようにと言ったので、私は足を組んで座禅をしました。しかし、今まで足を組んだことがなかったので、組んだとたんに痛くてたまりませんでした。お腹が痛いのか足が痛いのか分からず、汗で服がびしょびしょになりました。そうやって、1分1秒我慢しているうちに感覚がなくなり、うとうとと眠ってしまいました。
目が覚めると、自分は座禅を組んだままでした! 私はゆっくり歩いて、トイレに行きました。小便をした後、なんと2つの硬くて角のある結晶のようなものが出てきたのを見ました。1つは大豆の粒ほどで、もう1つは緑豆の粒ほどの大きさでした。子供のころに尿結石で入院したことをふと思い出しました。 座禅をしたことで、尿結石を排出できるとは思いませんでした。これは師父が私の体を浄化してくださったのです。法輪大法はとても素晴らしいです。
師父の大法は本物であり、真実であり、言われた通り、真に修煉すれば、師父は本当に助けてくださいます。もし師父が私を助けてくださらなかったら、入院して手術をしなければならなかったかもしれません。いくらかかったかもわからないし、どれほどつらいことでしょう。師父は、私が小さいころからの尿結石を、体内から取り除いてくださり、大きな業力を消してくださいました。師父、ありがとうございます!
それだけではなく、師父は私を真の修煉者にしてくださり、運命まで変えてくださいました。
大法を修煉して1年も経たないうちに、ある偶然の機会で、親戚の紹介によって私は新しい仕事に就きました。これは師父のご按排だと思い、とても大切にし、仕事の中で修煉者の基準に従って自分に要求し、技術を磨き、責任を持って真剣に取り組みました。すると上司に認められ、間もなくして幹部に抜擢されました。
私は師父のお教えに従って、自信を持って師父が按排してくださった修煉の道を歩んでいきました。
二、風向きが変わるが、修煉の決意は固い
1999年「7.20」、江沢民を党首とした中国共産党(以下、中共)が、法輪功と法輪功学習者(以下、学習者)に対して全面的な迫害を起こしました。私は動揺せず、学法と煉功を続けました。時間があれば、工事現場の作業者や出稼ぎ労働者に大法の良さを語り、中共の噓偽りの宣伝を暴露し、自身の体験を通じて、法輪功は人に心を修め、良い人になることを教えるものだと伝えました。そしてどんな時でも、真・善・忍の基準で行うようにし、実際の行動で大法修煉者が皆善い人であることを証明しました。
私はよその地域で建設関係の仕事をしており、またしょっちゅう現場を移動するため、ずっと一人で修煉している状態でした。私は職場で毎日法を学び、いろいろな形で人々に大法の良さと迫害の実態を伝え、大法弟子のやるべき「三つのこと」をしっかりと仕事の中に溶け込むようにしました。
中共の各組織から脱退するブームが始まった時、私は職場勤務という有利な条件を利用して、自分で『共産党についての九つの論評』を印刷して配りました。ある時、私はそれを県委員会の宣伝看板の中に入れた後、人に会社まで尾行されました。当時の状況は非常に危険でしたが、師父の保護のおかげで、資料が見つけられずに、無事逃れることができました。
その後、師父のご按排で、よその地域でも同修に会うことができました。私たちは面識のない人から、互いに協力して大法の資料を配り、人を救う仲間になり、広い地域で大量に資料を配りました。私の仕事現場は次から次へと変わるにつれ、資料も次から次へと配られ、限られた条件の中で、自分のやるべき「三つのこと」をできる限り行いました。
三、初めて北京に行き陳情する
2006年の春、妻は中共に連行されて迫害され、子供まで学校で影響を受けました。私は妻を救出するために地元に戻り、妻がどこに不当に監禁されたか、行方を尋ね回りました。妻が連行された時は、ちょうど海外の大法弟子が中国の学習者に対する臓器狩りを暴露した時期であって、私の家族と周りの同修は非常に心配していました。
特に妻の行方がわからないため、私は寝ても覚めても落ち着きませんでした。同修である妻を救出するために、北京に行って陳情することを決めました。
当時、同修たちは誰も私の上京に賛成してくれませんでした。「この時期に行くのは、危険が大きい。中共は邪悪すぎて、臓器を摘出されたらどうしよう?」と言う同修もいれば、「子どもと両親は誰が面倒を見ますか?」と言って、臓器狩りを暴露する動画を見せて、私を阻止しようとしました。それでも私は行くことにしましたが、同修たちは心配してくれて、また駅にまできて私を説得しようとしました。
私は彼らに、「私は大法のために、正義で公平な話をしに行きます。大法弟子は皆善い人で、妻を家へ帰すようにします。今、妻がどこに監禁されているのか、生死も分からないのに、黙っているわけにはいきません。心配しなくていい、私には師父が守ってくださるので、誰も私を動かすことはできません。私の臓器を取ろうとしたら、私は彼に笑って『ありがとう』と言います」と決意を伝えました。
私がすべてを放下していたのを見て、誰も私を止めませんでした。
私は生死を捨てて、堂々と上京の列車に乗り込みました。北京に着くと、陳情する人々について、中南海信訪弁の門に入りました。その時の私は鬼門に入ったようで、全身の毛穴まで緊張を感じ、他の空間の邪悪が狙っていて、目に見えない圧力で息が詰まりそうでした。臓器狩りの動画が目の前に浮かび、心が震えてしまい恐怖の極みでした。「私は何をしに来たのだろう? 私は大法弟子だ。妻は不当に監禁されている。私は大法の良さと迫害の実態を伝えなければならない。これこそ人々を救い、妻を家に帰すことができる」と思い、心を強めました。
私はそのまま待ち続けました。応接室には一人ずつ名前を呼んでから陳情を受けましたが、皆予約して登録した人たちです。登録していない人は外で待つしかありませんでした。
午後になって、1台の車が来て、呼ばれなかった人を登録して、写真を撮った後、車に押し込み、遠くの道端にみんなを降ろしました。それから、車は走り去りました。
初めての北京での陳情は、そのまま帰らせられたので、陳情を受けられず、大法を伝えることもできませんでした。しかし、私の最大の収穫は、恐怖心を捨て、生死の関門を突破したことで、この旅に出た甲斐がありました。
(続く)