文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年7月31日】5月23日に発表された文章の「真に修煉することは魔難から抜け出す唯一の方法だと信じている」を読んだ後、作者の誠実さと素直さに感心しました。本当に尊いことです。ここに自分の体験と感想を書いて、作者と共有したいと思います。不適切な点があれば、ご容赦とご指摘を仰ぎたいと思います。
私は1997年に修煉を始めました。その時、仕事も生活も順調に進んでいて、周りの同僚、親戚、知人から羨まれる中で、修煉の道を歩み始めました。きっかけは、中学時代からの親しい友人が、私が修煉者になる気質を持っており、修煉すべきだと勧め、『轉法輪』をプレゼントしてくれたことでした。しかし、私はその本を大まかに一読しただけで、1年経った後、公園に行って動功を学び、その夜、就寝前に頭を覆って泣きました。それは、修煉の道を選ぶと人々に羨まれるものを失いかねないと思ったからです。その後、近くの学法グループに参加し始めました。
当時の学法は、『轉法輪』の一節を学んだ後に感想を話すという形を取っていたので、一人ずつ話して、時間になると解散しました。その後、師父は新経文を発表され、どのように学法すべきかを説かれました。同修たちといくら熱く交流しても、やはり家に帰って静かに一人で学法するほうが収穫は多いと感じました。
当時、法を学ぶ速度は非常に速く、内容もしっかり吸収できました。自分の執着心、例えば見栄を張る心、優越感、嫉妬心などに気づきましたが、どのように除去するか分かりませんでした。「理論」と現実(自分の修煉状態)が離れていました。今振り返ると、当時はどう修煉すればいいのか分からなかったため、ほとんど修煉していない状態でした。
それから迫害が始まり、私は不当な強制労働教育を受け、病院に運ばれたことでり、左肺の機能をほぼ完全に喪失し今でも体調が悪く、何かに集中しない限り、一日中、体の不快感から逃げられません。それは軽い不快感ではなく、かなり重いものです。ここ数年間、かなり努力したにもかかわらず大きな改善はありませんでした。どうしてこうなっているのか、それは自分の執着を認識できず魔難が積み重なっているため、執着心が浮かぶと体調が悪くなるのです。
これまでの道のりで何度もつまずきましたが、師父のお教えに疑問を持ったことは一度もありません。悲しい時に、自分は師父に救われる資格がないと思ったりもしますが、ひたすら学法しました。
2018年、私は不当な判決を受け、不本意に妥協しました。釈放されてから、劣等感と自責の念は言葉では言い尽くせませんが、師父は常に私を見守り、励ましてくださっていることを感じました。しかし、『轉法輪』を手に取ると、一日に数ページしか進めないという、過去20年間経験したことのない状態になりました。自分を責め、絶望しましたが、法を学ぶことを決して諦めませんでした。黙読すると息苦しくなるので、声に出して読むようになり、ずっと今まで続けています。修煉の初期に法をたくさん学んだおかげで、今は『轉法輪』を全部暗記しました。
今も黙読や声なしでの暗唱はできず、声に出して読むしかありません。学法の速度は遅く、一時間に約20ページしか読めません。頭がぼんやりしている時でも(これが私の常態で、頭がすっきりする時はほとんどない)、最低限、読んでいる文字を理解し、読みながら他のことを考えないようにして、ひたすら学法を続けています。
しかし思いがけなかったのは、そんな中で私に大きな変化が起きました。例えば最近、家庭内のトラブルがあり、以前ならきっと頭を抱えてしまいますが、今回はほとんど心が動揺しませんでした。親戚からは、「皆が自分のことばかり考えているのに、あなただけは自分のことを一切考えず、他人のために尽くしている」と言われました。実際に、私はただ師父が教えてくださったことを思い出して行動に移しただけで、常人に「無私」と感じられました。しかし、私自身は知っています、事が起きる時、頭に浮かんだ最初の一念は大法の基準に達していませんが、良くない考えや除去できない執着に落胆したりしながらも、大法の法理を思い出して、法理に反するものを排除するように努力しています。
不法に拘束された時期、病院に入院した時期を除き、私はほぼ毎日明慧ネットを見ています。以前は、同修たちが書いた交流文章が、私に何かを気づかせて、何かを悟らせていると感じていましたが、今は、同修たちが明慧ネットに発表した文章も師父の按排で、師父はその同修に知恵と能力を与えて、われわれに互いに刺激し合い、共に成長し、修煉を深める機会を与えてくださったと理解しています。
もし誰かが修煉がよく出来ないために次元が落ちたら、その人と繋がりのある修煉者も、彼に注意していなかったために自分の次元も落ちるのか、宇宙はそれで欠落してしまうか、と考えたことがあって、答えは見つかっていないままです。
修煉者の昇華した部分はすぐに師父によって隔離され、残った部分は、まだ修煉が足りない部分です。もしその法理を忘れて他の修煉者の言動を見ると、見れば見るほどに不満が増すでしょう。家族との間で修煉が難しいのも、その原因があるかもしれません。
そのため、学法は最優先のことであり、法理に従って向上することが最優先です。自分が法理に合致していれば、はじめて周りの人や事を見る時に常人の枠を超えることができ、常人の情に影響されずに、常人を超える素晴らしさを感じられるのです。
身体と精神の苦痛は、実は良いことではないでしょうか。師父はいつも、常人と逆の視点で問題を見るようにと教えておられます。大法への揺るぎない信念は心の底からの深い期待、待ち望み、渇望から生まれたものではないでしょうか。
『精進要旨二』「妨害を排除せよ」に「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」があります。その言葉は私に計り知れないほどの指導をくれて、その言葉を学んだ時から、その通りに実践するようにと自分に言い聞かせました。
師父は修煉者一人一人の修煉の道を按排して、弟子に与える全てを『轉法輪』に注ぎ込んでくださいました。そのため、同修たちよ、たくさん学法しましょう。もちろん、経文を学ぶことも忘れないでください。
多くを話してしまいましたが、発表された修煉を諦めない心は本当に尊いもので、私自身大いに励まされました。不適切な点があれば、同修の皆さんのご寛容とご指摘をお待ちしています。