私の怨恨が形成される過程
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年8月1日】両親が亡くなってから私は、魔難の中で多くの執着心が生じ、特に怨恨の心が増しました。心は純粋でなくなり、人や物事に対する嫌悪感が強くなりました。特に同修に対しては、より一層欠点探しをするようになり、少し気に入らないと、常人の考え方で同修を測り、「修煉者なのに、どうしてこんな状態なの?」と不満を表し、良くない心で同修のことを憶測していました。「そんなことを考えてはいけない」と、後で気づくと、その良くない心を少しずつ正していました。しかし、これが無意識のうちに習慣的になってしまいました。

 法をもっと勉強し、確実に修煉を続けているうちに、私の心性も徐々に向上してきました。慈悲深い師父は、私のこの恐ろしい習慣と強い恨みの心が形成される過程を私に見せて下さいました。

 母が他界したことで、私は同修のLさんに対して、いつも大きな憤りを抱いてきました。しかし、伝統的な家庭教育を受けてきたため、私は表面上に体裁と自制心を保っています。修煉者として、同修にどう対処するかがわかっており、同修を恨むことはよくないことも知っていますので、表面的な平穏を得るためにこの恨みの心を抑えていました。 たまに会うLさんに、表面上は和やかな態度で挨拶していました。

 執着は遅かれ早かれ、取り除かなければなりません。執着心を長く持っていればいるほど、形成された固有の観念を見つけにくくなり、取り除くことは容易ではなくなります。

 ある時、私たちの学法グループが場所を変えようとしました。意見を出し、話し合ったとき、私は黙って聞いていました。結論はまだ出ていなかったとき、突然、Lさんが入って来て、私を指差しながら、「あなたの家にしよう」と言いました。この一言で、みんなの視線が私に集まり、「自分が標的になった」と感じ、当惑しました。そのことで、もともとLさんに抱いていた怨恨が一気に爆発し、Lさんに直接反撃し私は、「じゃあ、あなたの家にしたら、どうですか? あなたの家が一番よいと思います」と言い出しました。Lさんのほうも一歩も下がらず、私たち2人は言い争いました。そのときの私は、善意を持たず、もはや修煉者の状態ではなくなり、興奮して戦う姿になってしまいました。

 家への帰り道、私は考えれば考えるほど怒りがこみ上げてきて、次はLさんにどうやって言い返そうかと考え、ここ数年の怨恨をすべて吐き出して発散しようという心境になりました。そんな執着に駆られていた私は、自分の問題の深刻さに気づかなかったのです。

 翌日、私より大法を得るのが遅かった同修に会い、私とLさんの間に起きたトラブルを簡単に話しました。そして、この同修は法の上で私と交流し、「法に基づいていない」と私のことを指摘しました。彼女はまた、修煉者の間の恨みで互いに傷つけた例を挙げ、2、3時間かけて私と交流してくれました。

 私は聞いているうちに、否定や反論から、黙ってうなずき、認めるようになり、内に向けて探し、執着心を持ち続けている自分自身の問題を発見しました。私は彼女に、気づいた同修たちが大法に則っていないところや、自分の意見や不満の一部も話しました。

 最後に、この同修は、「もし、同修に本当に何かあったら、あなたは後悔しないのですか?」と厳しく言われました。それを聞いて、頭を叩かれたように、私は一気に目が覚め、「私が間違っていた。これから、どう対処するかわかりました」と、すぐに言いました。

 私とLさんの間のトラブルは、私の執着を取り除くために、Lさんがこのように按排されて私の近くにきたと思います。このすべては私の成就のためですが、悟らない私は、向上せず、執着を捨てず、怨恨を抱いて、同修に害を及ぼすことに気づかず、自分自身にも多くの業を作り出してしまいました。

 交流した後、私は、「この新しい同修は普段、このように法に則った話をすることはできない。これは師父が私を目覚めさせるために同修の口を借りたのではないか」と思いました! この時、私は自分自身の問題と同修Lさんに対する恨みの心がある、とはっきり分かりました。

 帰宅後、明慧ラジオの同修の交流文章を聴いたら、偶然、恨みの心が他の空間では害を与えているという話を耳にしました。「恨みの心はとても恐ろしいもので、私自身もこの執着心に駆られて、善の思いが全くなくなり、悪念を抱くようになり、もはや大法弟子とは言えないほどの状態になった」と、自分のことに驚きました。それで、怨恨の心をすぐに取り除くべきだと気づきました! 師父の慈悲深いお心遣いを体験し、「師父、私は同修を傷つけました。私の過ちです」と、私は自責し、謝りました。

 その翌週の学法の日、私は偶然にもLさんと再会しました。私はすぐ、自分からLさんに、「Lさん、私が悪かったよ。これから、自分を正します」と言いました。Lさんは嬉しそうに親指を立てて、「あなたは私の近くにいて、私の心性を向上させてくれているんでしょう」と言いました。私たちは隔たりをなくし、お互いに顔を見て、微笑みました。それ以来、私の心の底にあった8年越しの恨みが吹き飛びました。

 この内に向けて探す過程で、師父は私に自分で見えない執着を示し、怨恨の恐ろしさを示し、自分自身のあまりに多くの不足や善でない心を見せて下さいました。また、自分にも人にも害になる怨恨の心を持つべきではないことを教えて下さいました!

 しばらくして、別のトラブルが起きましたが、私はまた、すぐにマイナスな考えが出て来ました。同修に対する猜疑心、軽蔑、勝手な判断、論争、嫉妬心など、さまざまな複雑な心理が現れ、自分を非常に高い位置に置きました。しかし、この前の内に向けて探す実践で、私は正念を発した後、「同修はみんな素晴らしい。修煉とは自分を修めることで、問題があるのは自分自身だ。どうしてそんなふうに同修のことを考えるのか? これは私ではない。私は真・善・忍から構成された生命なのだから」と考えるようになりました。

 その時になって初めて、「これは自分が長期的に形成された物事を判断する観念であり、物事に出会うと、まずこの後天的な観念を使って判断している。後になって、大法で測ると、先のことが間違っているとわかると、少しずつ自分を正し、自制する」という自分の悪い習慣に気づきました。ですから、いつも、法理で表面的なものを正しましたが、根本的な問題、固有の観念に気づいているわけではないので、大法を使って自分を正しても、時折悪い念が湧いてくるのです。

 私は、これは私が修めなければならない固有の観念と基点の問題だと気づきました。根本的に悪い念があってはならないし、同修はもちろんのこと、人や物事に対して真・善・忍を持って接しなければなりません。私たち修煉者は一体であり、皆師父の身内なのです。

 今後、トラブルが起きた時、「まず、慈悲、善意の心を持って考え、法を用いて物事を測り、謙虚な大法弟子になり、悪意のある憶測や見下し、侮蔑で人や物事を扱わないことにしする」と考えています。人や物事に対して悪意を抱くのは共産党文化であり、修煉者が取り除かなければならないものです。法理を明確に認識した後、私は、「これから、常に大法の基準で自分を要求し、自分を正し、確実に精進していきたい」と決心したのです。

 以上、現段階での個人的な認識です。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/7/15/479690.html)
 
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