計算しない
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文/大陸の大法弟子

 【明慧日本2024年8月11日】最近、同修の交流文章をインターネットで読んだ際、言葉では表現しがたい感覚を覚えました。その文章で言及されていた否定的な言論の「真偽」を探ろうとする要因が私を導き、そして支配しようとしているのに気づきました。私はこの影響に抵抗しようとしましたが、その力が強く、当時は正念でそれと対抗するしかなく、完全に排除することはできませんでした。私の頭の中では師父の法理が次々と浮かんできましたが、それらの法理を用いて自分を「慰める」だけで、その要因を打ち破ることはできませんでした。

 冷静になった後、私はこの問題と自分の修煉の過程について、法に基づいて真剣に考え始めました。これは単に私の師父と法に対する信念を試すだけでなく、その正念を破壊しようとする非常に悪質なものだと感じました。自分の生命の微視的なレベルにまだ法に適合しない要因があり、それらが邪悪な要因を引き寄せたのだと認識しました。

 この要因を自分の内に向かって探し始めると、師父のある法理を思い出しました。

 「もちろん、この出来事を通して、学習者一人一人の心性の位置がはっきりと分かりました。しかしいずれにせよ、この出来事の最初の頃に皆厳粛な思索の過程を経験しました。これは間違いとはいえません。これはあなたに考える機会を与えているのです。李洪志は一体どのような人でしょうか。この法は本当に正なのでしょうか。人間から脱皮し、ここまで歩んでこられた人々は、皆さんに教えますが、既に乗り越えてきたのです。(長い拍手)」(『米国西部法会での説法』「導航」)

 私は当時、この難をどのように乗り越えたのか、振り返ってみることにしました。迫害が始まる前、私は師父の『轉法輪』から悟りました。修煉には必ず試練があり、将来中国共産党は必ず法輪功を弾圧して修煉者を試すだろう。大法弟子は必ず信念を固め、天安門に立つだろう、と。そのため、邪党が弾圧を始めたとき、私は驚きませんでした。しかし、邪党のテレビやメディアが絶え間なく嘘をつき、デマを流したとき、私の心の中に師父が言及したような疑問が生じました。そして自分がすでに歩んできた道を真剣に考え始め、自分は騙されていない、師父が話されたことはすべて真実だ、と思いました。

 すぐに、私は自分が乗り越えたと考えました。今考えてみると、どのように「乗り越えた」のでしょうか? 「私は騙されていない」という認識を持って乗り越えたのです。この大法は真実であり、師父が話されたことはすべて真実だと強く信じていました。師父が言われたとおりに行動すれば、自分の生命にとって「良い」ことだと思っていました。そう考えると、映画『再び神となる』の中で、小鳳が趙海峰の困惑に対して言った言葉が頭に浮かびました。「あなたはいつも計算して、何かを得ようとしている」。私は理解しました。当時、私が乗り越えたのは「計算」していたからです。何を「得られる」かを計算していたのです。大法を修煉すれば最終的に圓満になる、常人が得られない素晴らしいものが得られる、だから、自分のすべての努力は価値があるものだ、と。

 言い換えれば、私の修煉は、師父と大法との「取引」のようなものだと考えていたのです。私の努力と修煉には、見返りがあって、見返りがなければ、そんな「損」な「取引」はしない、というものでした。これは私の生命に存在する「私利」と「我」の要因の現れであり、これらの法に適合しない要因が常に私が大法に同化し、真摯に修煉することを妨げていたのです。

 修煉の初期にこのような考えを持つのは理解できます。修煉には確かに認識の過程があります。しかし、大法の中でこれほど長く修煉してきたにもかかわらず、まだこのような認識と考えを持ち、修煉の中で「計算」して「得よう」とするのは、あなたがまだ大法の修煉を真に理解しておらず、大法が何であるかを認識していないということです。つまり、あなたは修煉してきたかもしれませんが、法に同化していないのです。

 罪を持ち、破滅に直面している生命が、師父が来てあなたを救おうとしているときに、まだ「計算」して「得よう」とするのは、この時あなたはただ感謝し、危険な状況から早く離れるべきで、あれこれ考えたり、何か条件を付けたりするのは適切ではありません!

 別の角度から言えば、大法の中で真に修煉している弟子は、常に大法の深遠なる内涵から特別な素晴らしさを悟り、常にその貴重さと感謝の心が生まれることでしょう。私は迫害後、法を暗記し始めてから、法を暗記すればするほど師父に近づいていくような、より「親密」になっていくような感覚(人間の言葉では表現できません)を覚えました。師父のことを思い出すだけで、涙が溢れてきました。私の生命のすべてを造ってくださった師父への想いは、言葉では表現できません! この感覚は修煉における「師父を信じ、法を信じる」ということを超えています。

 私は法を得た日の夜、はっきりとした夢を見ました。夢の中で、天の北西の空に扉が開き、師父の大きな姿が扉の中に現れ、両手を広げていました。そして私は7、8歳の少年の姿で、突然師父を見つけ、まるで長い間会っていなかった親族(これは単なる比喩です)のように、全力で師父に向かって走り出しました……見たところ師父との距離はとても近いのに、どれだけ走っても師父との距離が縮まりません。しかしその時、ただ一つの信念がありました。師父のそばに走り寄るのだ、他には何もない、でもこの走りは、人間世界の20数年に及んだのです!

 真の修煉には何の条件もありません。たとえて言うと、両親があなたに家に帰るように呼びかけたとき、あなたは両親に条件を付けますか? 私たちの修煉は家に帰ることではないでしょうか? 師父は私たちを探し、家に帰る道を教え、私たちを見守り、巨大な犠牲を払い忍耐をもって、私たちが家に帰れる条件を作ってくださっています。私たちはまだ何を求めるのでしょうか? まだ何を得ようとするのでしょうか?

 以上は、個人的な少しばかりの認識です。法に適合しない部分があれば、同修の皆様からのご指摘をお願いいたします。

 合掌

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/8/7/480557.html)
 
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