文/米フロリダ州の大法弟子
【明慧日本2024年8月24日】最近、いろいろなことが重なり、迷いが生じています。私は無力感があって消極的になり、言い知れぬ悲しみもあります。
『轉法輪』の第六講の中で、師父は「ある時期になると、功が本当に存在するのかどうか、修煉はできるものなのか、果して高い次元へ修煉していけるだろうか、佛は本当に存在しているのか、などについて、あなた自身が紛まぎらわしく思い、迷ったりすることが起きます。将来、あなたに錯覚を与えて、それらすべてが存在しておらず、みんな偽物だ、とあなたに思わせるようなことも起きるかも知れません。動揺するかどうかを試すのです」と説かれました。
私はいつも、自分はとても堅実な修煉者だと思っていました。師父のおっしゃること、師父の説かれることは何でも信じ、師父の説かれることはどんなに高くても信じると思っていました。自分がまさか動揺するとは思ってもいませんでした。
私は1992年に大法の修煉を始めてから、現在までの約30年間の修煉について考えました。では、なぜ今になってこのような迷いが生じたのでしょうか?
この消極的で無力感の状態は、実はこの30年間の修煉の中で時々現れていたことがわかりました。私が中国で迫害され、留置場に収容されていた時、どうすれば旧勢力の按排を打破できるのかと考えました。この無力感は、私の空間場を覆う霧のような物質で、進むべき道がはっきりと見えなくなったからです。
2000年7月17日、中国共産党にとって「敏感日」である「7.20」が近づいた頃、私は派出所の警官に理由もなく自宅から連行され、留置場に放り込まれました。そのとき、無力で消極的なものが私を包み、そこから抜け出せずに苦しんでいました。 留置場で私が断食したのは、邪悪の迫害に抗議するためではなく、悲しさと動揺で食事が食べられなかったからでした。あの時は、留置場にわずか7日間拘束されていたのですが、勤め先の会社が私を保釈してくれました。
釈放された夜、私は一気に『精進要旨』の「道法」を暗記したことを覚えています。その後、毎回の関に会うたび、「道法」の暗記に頼って関を突破したのでした。
師父はこう説かれました。「弟子として、魔難がやってくるときに、本当に平然として動ぜず、または異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するよう心を放下することができれば、充分に関を乗り越えます。それでも魔難が尽きることなく長引くのであれば、もし、心性または行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放任している隙につけ入っているに違いありません。修煉者は、なんといっても常人ではないのですが、ならば、本性の一面は、なぜ法を正さないのでしょうか?」(『精進要旨』「道法」)
私は、法は暗記しているものの、まだあまり理解できていなかったのです。だったら、どのようにして師が法を正すことを手伝うことができるのでしょうか? この消極的な考えと悲しみをどのように取り除くことができるのでしょうか?
自分の最近の修煉状態を振り返ってみている過程で、内に向けて探してみました。「消極的な原因はなんなのか? どのようにしてこの様な状態になったのか?」と。すると「人心」によるものだと分かりました。
私は落ち着いて、自分が消極的な状態を分析してみました。私は非常に感情的で、情が非常に重いのです。無力で消極的な状態の裏には、根本的な執着があります。それは常人の中の公正、正義や良心を執拗に追求することです。社会のことでも、同修間のことでも、どんなことが起こっても、私は落ち着かない気持ちになるのでした。香港の学生たちのことは、私は無力を感じ悲しかったのです。米国の選挙のことでも私は世界が暗いと感じました。この人間の世には正義も良心もないと、絶望的に感じることもありました。
私は、「この世の中は、本当にすがる価値があるものが何もない。目をつぶって、適当に生きて行けばよいのだ」と思ったりもしました。同修たちのトラブルを耳にすると、私は、誰が正しくて、誰が間違っているのかをはっきり区別したいのであって、自分は正義の味方をしたい気持ちになっていたのでした。他人のトラブルを見ても、内に向けて探すことなどできていませんでした。
そのため、「なぜこのトラブルを見せられたのか、内に向けてどのような執着があるかを探さなければならない」とは思いませんでした。この世は不公正に満ち溢れていると感じていたのです。このことは、私の感情を動かして、心が強く揺さぶられました。
実際、たとえ人間の理がすべて自分の味方であったとしても、それが何になるのですか? 私は自分自身を修煉すべきではないでしょうか。いわゆる公平とか正義とか、すべてはこの人間の理ではないでしょうか?
常人社会のことは演劇の様で、そのような争いや競争で満ちています。劇に執着すると、この世にやってきた誓約を忘れ、大法弟子の使命を忘れ、人生が無意味であるとさえ感じます。これは危険な状態ではないでしょうか? このような無力感と消極的な情緒を取り除くため、やはり法をたくさん学ばないといけません。
師父は、「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」(『精進要旨二』「妨害を排除せよ」)と説かれました。
情が重いからこそ、私の慈悲心は小さいのです。コロナが流行り始めた当初、「神様がついに悪者を罰するのではないか」と、いつもワクワクしていました。しかし、コロナ流行が進むにつれ、私は嬉しい気持ちがなくなりました。政府が都市の閉鎖を発表した直後のある日、私は車で家に帰る途中、道路を走っていた車は私一台だけでした。周囲は静寂に包まれており、まるで何もない、人けのない別の空間に入り込んだような気がしました。私は車を走らせながら、心の中に説明出来ない恐怖が湧き上がりました。そして、私は「師父、私は間違いました。コロナが人の命を奪っています。私は喜んではいけません。私はこの世が平和で豊かであってほしいのです。私は誰に対しても心に憎しみや呪いを抱くことがあってはいけないのです」と、師父にお願いしました。
師父は、「旧勢力は人間が救われることを完全に阻んでおり、なぜならば、宇宙の旧勢力は宇宙がだめになり、衆生も皆だめになり、全部消滅すべきだと思っているからです。修煉者は厳しい試練を経る必要があり、しっかり修めなかった大法弟子は淘汰されてしまい、世の人とそのほかの衆生も残してはいけません。皆さんが読んだ多くの予言はこのように書いてあるでしょう。一万人、または千人に一人が残ると言っている人もいれば、十世帯に一世帯しか残らないと話す人もいます。いずれにせよ、それらは大量の衆生を消滅しようとしています。しかし、大法がこの世で広く伝えられることと、衆生を救い済度することの根本的な目的はこのすべてを救うためであり、衆生が救われ済度されるようにすることが根本的な目的なのです。そのため、できるだけ多く行ない、できるだけ多く救って下さい」(『各地での説法』「二〇一〇年ニューヨーク法会での説法」)と説かれました。
以前、法を読んだ時、「十軒の家の中に一軒しか残さない」の予言を覚えているものの、これは歴史の必然的な流れだと思っていました。今、法のこの一節を読んで、これはすべて旧勢力が仕組んだことで、師父が望まれたことではなく、師父がより多くの人を救うようにと、私たちに望んでいらっしゃることだと悟りました!
師父は私たち大法弟子だけでなく、宇宙のすべての衆生を大切にされています。私の消極的な気持ちの裏には、今の世の人間に対する失望もあり、いつも、「もうここまで腐っているのに、どうしようもないんだ」と考えていました。お客さんが悪意を持ってお金を返金するようと要求したとき、私は心の中で悪い念を抱き、命が救われなかったことを悲しむのではなく、心の中で呪ったのです。
法を学び続ける中で、私を覆っていた無力感の霧が少しずつ消えて行きました。私の心はしっかりとしてきました。師父は、「肝心な時、いつも人心、人間の念、人間の情をもって物事を量っています」(「険悪を遠ざけよう」)と説かれました。
師父は、「困難に満ちた道を歩んで来ることができたのですが、最後の道のりで足をすくわれないようにしてください」(「目覚めよ」)と説かれました。
私たち同修がお互いを大切にし、ともに歩んできたこの困難な二十数年の経験を大切にし、ともに精進していくことを願っています。
(2024年フロリダ州法会の発表文章)