【明慧日本2024年8月28日】『西遊記』では、唐僧とその弟子たち4人が、さまざまな苦難に耐えてようやく西方極楽(訳注:十億万仏土先の西方にあり、阿弥陀如来がいるとされる浄土のこと)にたどり着き、正果を得たというストーリーになっていますが、これはフィクションだと言う人もいます。実際、歴史上、実在の唐僧は、仏典を手に入れるため、交通機関が発達していなかった古代に命がけで、真摯な心と驚異的な忍耐力で死地を抜け、たった一人で2万5千余里を旅し、インドに到達したのです。唐僧が、西方へ仏典を手に入れる過程は、まさに生死をかけた修行でした。
一、13歳で僧侶の資格を得る
唐僧、通称唐三蔵(たんさんざん。唐の時代の三蔵法師:三蔵を修めた法師の敬称)俗称陳褘(ちん い)、洛陽緱氏(現在の河南省偃師区)出身。隋文帝開皇二十年(600年)生まれ、仁寿二年(602年)や開皇十六年(596年)の諸説があります、唐麟德元年(664年)死去。出家後の法号は玄奘(げんじょう)で、玄奘法師とも呼ばれました。
陳褘の父は、儒教や経典に熱心でした。彼には四人の兄弟がおり、次兄は幼少の頃から僧侶となり、法名を長捷といい、洛陽浄土寺に住んでいました。玄奘は一番下で、幼い頃から、頭が良くて、容貌が優れており、八歳で父親から教育を受け、勉学に励んでいました。父親から孔融が席・梨を譲った物語を説明しているのを聞いて、突然立ち上がりました。父親が彼に理由を尋ねると、彼は「孔融が年長者を見たときに席を避けていた。今、父親が私のために経を解いている時、私は席に着くことができるのだろうか?」と答えました。父親はとても喜んでいました。そして、彼は若い頃、悪童と一緒にいない、邪言を聞かないという資質があり、次兄の長捷法師とよく仏教の古典を学んでいました。
仏教が盛んだった隋・唐の時代、僧侶になるために、政府は非常に厳しい試験制度を設けました。仏教を学びたい人は、政府によって統一された採用試験を行うため、試験に合格して、僧侶として認められ、「度僧 」(どそう。政府から度牒:どちょうを交付された僧)と呼ばれていました。煬帝大業十年、政府から10人の僧侶に発布しましたが、玄奘はまだ13歳で、僧侶の規定年齢を満たしていないため、試験会場に入ることができませんでした。玄奘はがっかりして、試験会場の外を徘徊して離れませんでした。
試験官である隋の大理寺卿(刑罰・訴訟担当)・鄭善果氏は仏教の信者で、この話を聞いて、玄奘を呼んで面談をしました。玄奘は若いのに穏やかで、おおよそ普通の人とは違うと感じました。鄭善果氏は「なぜ出家したいのか」と尋ねました。玄奘は「志は遠く如来の教えを伝え、身近な人々に佛教の教えを理解してもらいたい」と答えました。若いのに口調がとても穏やかで、試験官は驚き、賞賛しました。そのため、玄奘は特別に僧侶になることを許され、選ばれました。試験官は傍観者にこう言いました。「経典の内容を理解することは易しいが、高潔な人格を持つ人物は得難い。この子は非凡な才能を持っているので、必ず佛門の大器となるだろう!」
二、経典を得るために、九死に一生
玄奘法師は、いろいろなところを訪ねて学びましたが、長年、各地でたくさんの話を聞いて感じたことは、それぞれの学派の問題点が違っていて、内容に大きな食い違いがあると言うことでした。どうしたらいいのか、わからないため、西へ行って経典を手に入れることを決意しました。
唐の貞観元年(西暦627年)、玄奘は経典を得るために西へ旅立つ決心をしました。しかし、当時、唐が建国したばかりで国境は平穏ではなく、外出禁止令がありました。インドに行くため、彼は2回も正式な請願を出しましたが、許可は得られませんでした。西へ行くには、密航以外に道はありません。当時、干ばつが続いていたため、朝廷は生活のために外出することを許可し、玄奘はこれを機に長安を出て西へ向かいました。西安から秦州、蘭州を経て涼州(りょうしゅう。中国にかつて存在した州)に着きましたら、武術の達人である石槃陀(せきばんだ。胡人:未開の土地の住民。野蛮人のこと)に道案内してもらい、昼夜を問わず歩き続け、玉門関(ぎょくもんかん。シルクロードの重要な堅固な関所の1つ)を抜け出しました。しかし、石槃陀は旅の苦労に耐えかねて、やむなく別れを決意しました。別れる前玄奘に、関外(関所の外)にまだいくつかの要塞があるため、慎重に行動なければならないと伝えました。
まもなく旅立つその前に、ついに歩哨(ほしょう。 軍隊で見張りの兵士)に見つけられ、尋問のために引き留められました。偶然にも、歩哨も仏教徒で、玄奘の話を聞いて、経典を得る強い意志を感じたため、歩哨は玄奘を釈放しました。それ以来、玄奘は一人で、昼夜を問わず三日三晩歩いていましたが、まだ八百里のゴビ砂漠地帯を出ていません。
この時、玄奘はすでに疲れており、ついに喉の渇きで気を失いました。突然、冷たい風で目を覚まし、前進し続け、幸いにも、荒涼とした砂漠地帯に、まるで奇跡のようなオアシスが現れました。玄奘は命を繋ぐことができました。砂漠の苦難の旅は、文字や言葉で表現するのは難しいものでした。ここに『西遊記』の一節を引用します:「上には鳥も飛んでおらず、下には獣も走っておらず、草木も生えておらず、人里も絶えている。時おり砂塵が巻き起こり、時おり激しい雨が降り注ぎ、蒸し暑い状態になり、何も飲まず何も食べずに、昏迷状態から意識を取り戻した。時折、凶悪で恐ろしい幽霊と妖怪の姿が現れる」砂漠の旅は、まさに九死に一生を得るようなものでした。
この砂漠を通り過ぎて、やっと高昌国に着きました。高昌国の王である曲文泰は敬虔な仏教徒であり、玄奘のことを知って使者を派遣しました。到着した玄奘を見て、宝物を得たような喜びを示し、玄奘に敬礼しました。高昌王は玄奘を異姓の兄弟として認めました。そして、彼に高昌国に滞在するよう強制し、「滞在を拒否するなら、中国に送り返す 」と脅しました。玄奘は断食をし、断固として滞在を拒否し、最終的に相手側を感動させ、釈放されました。同時にまた、身の安全を守るために2~30人もの兵士を派遣しました。そして、玄奘は天山南麓に沿って西へ進み、神秘的な西域高原、アフガニスタンを経て、インド西北部のカシュミーラ国(現在のカシミール地方)に到着しました。
その後、一年中雪に覆われた山々を越え、人跡未踏の大砂漠を横切り、白馬を引いて氷山の小道を通り、ちょっとした油断で奈落の底に滑り落ち、粉骨砕身の危険もある困難な旅に遭遇しました。同行していた商人の中には、氷山で凍死したり、深淵に滑り落ちて、氷の穴に葬られたりする者もいました。玄奘の西遊記には、「私自身でさえ、奈落の底を見つめる勇気がない。下には数え切れないほどの何千年もの間の凍りついた死体があるからだ」と書いてあります。この困難な旅において、遭遇する危険は、実に数え切れませんでした。七日七晩の旅の末、ようやく氷山と雪山を越え、さらに進むと、インドに到着します。
三、菩薩の啓示と高僧の教え
玄奘は二年間の危険を冒して、百十カ国を旅し、貞観三年、ついにインドの西北、加湿弥羅(かしゅみら)、ガンダーラなどに到着しました。そして、小乗仏教の論師から小乗仏教の古典を学びました。佛教理論をより深く理解するために、彼はバラモン学者の下でヴェーダ哲学を学び、梵語を専門的に勉強しました。ヴェーダ哲学の知識は、梵典研究のための重要な手段とするためでした。ここで2、3年暮らした後、彼は北インドから川に沿って東に向かい、中央インドを訪れました。
ガンジス川を渡ったとき、玄奘は強盗団に襲われました。強盗団は、彼の容貌が優れているのを見て、彼を殺して天の神に捧げようとしたのです。危機の時、大風が吹き荒れ、電光と雷鳴がこもごも起こり始め、天と地が暗闇に包まれました。怯えた強盗たちは、神に怒られたと思い、あえて殺すことができませんでした。その後、理由を尋ねると、玄奘が西方に経典を取りに来たことを知り、強盗たちは、ひざまずいて悔い改め懇願しました。その後、この話が広まり、玄奘はとても有名となり、インドの人々に深く崇められるようになりました。
ナーランダ寺は中央インドの有名な仏教寺院で、インドの仏教の最高学府でもあります。1万3千人の住人がいて、その中には有名な僧侶や学者も多いです。玄奘は寺に入ると、4人の高僧、200人以上の僧侶と千人以上の托鉢僧が幢幡(どうばん。本来は幢と幡のこと。ともに荘厳具として用いるが、現在はこれを一つにして、六角または八角の幢形にし、幢竿から幡を垂らす)華香(けこう。 仏前などに供える花と香)を持って、玄奘を歓迎しました。玄奘は戒賢論師は、インド全土の仏教の指導者で、特に唯識学の泰斗(たいと。「泰山北斗(たいざんほくと)」の略。中国で有名な山、北斗七星のこと) として国王に尊敬されていました。彼は非常に聡明ですが、奇病をを患っており、生きることも死ぬこともできないほどの苦痛を伴うこともありました!
ある夜、彼は三人の聖者、金色の文殊菩薩、銀色の観音菩薩、水晶色の普賢菩薩(ふげんぼさつ)の夢を見ました。普賢菩薩は彼に「あなたは前世でこの国の王であり、多くの生き物を傷つけ殺したため、現世でこのような苦しい病気になった。三年後、中国から一人の僧侶が仏法を求めてインドにやって来る。あなたはできるだけ彼に唯識学を伝授し、仏法が中原(中国全土)まで広まるように努めなさい。そうすれば、業力の罪は消滅し、苦痛と病気は根絶されるだろう」。夢の後、戒賢論師は、いつも玄奘が早く来ることを期待していました。果たして玄奘がナーランダ寺に法を求め、夢が真実であることを証明したのです。戒賢論師は非常に喜んで、生涯で学んだことを玄奘に伝授し、玄奘に数年間明師を訪問するために外出させました。
玄奘法師は17年間もインド各地を巡り、特に当時の学者が集まっていたナーランダ寺に5年間勉強を続けた後、仏法を広めるために帰国したいと考えました。貞観19年(西暦645年)1月、長い旅の後、ついに長安に戻りました。長安城では、文武の官吏が道中で玄奘法師を出迎え、何万人もの民衆が歓呼し、空前の盛況を呈しました。
玄奘の非凡な西遊記体験は、唐の太宗皇帝に注目されました。太宗皇帝は玄奘に洛陽で面会し、西域への旅と経験談を書き記し、後世のために『西域伝』を編修するよう依頼をしました。この書物が現存する『大唐三国志西域伝』でした。全12巻からなり、西域への旅で経験した110ヶ国と伝聞で知った28ヶ国・地域の地方風俗、地理、物産と気候、政治と文化などを記したもので、貴重な歴史資料となっています。
貞観19年(西暦645年)から、玄奘は経典の翻訳を監督し、西暦663年までの19年間に千巻以上の諸経典を翻訳し、同時に、古代中国の有名な哲学書『老子道徳経』をサンスクリット語に翻訳して、インドに広めました。翻訳が完成した2年後の664年2月、玄奘は銅川玉華寺で逝去しました。遺体は長安に葬るよう皇帝に命じられました。埋葬の日、首都から500マイル圏内では、百万人が見送り、3万人以上が玄奘の墓の隣に宿泊したといいます。