文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年9月7日】私は若い大法弟子で、2018年3月から幸運にも法輪大法を学び始めました。この数年間の修煉の道を振り返ると、転んだりつまずいたりして、時には精進し、時には怠けていました。慈悲深く偉大な師父が、私のような駄目な弟子を見捨てずに何度も修煉の機会を与えてくださったことに感謝しています。学法を通じて、修煉においては師父を信じ、大法を信じれば、どんな困難も乗り越えられると認識しました。
以下は、修煉の中でのわずかな体験を師父にご報告し、同修たちと共有したいと思います。
怨恨心を取り除く
修煉する前の私は、非常に短気で、他人に何かを言われるとすぐに怒っていました。金遣いが荒く、オシャレが好きで、友達も多くて、とても利己的でした。結婚してからも家庭内の不和が続き、夫や義父母との喧嘩も多くありました。その結果、夫が浮気をするようになり、時々帰宅すると暴言を吐き、言葉をちょっと間違えただけで、私は暴力を振るわれるようになりました。義父母も私の味方にはならず、夫婦喧嘩は大したことではないと考え、私が夫を怒らせないようにすべきだと言って、私の短気を責めるばかりでした。その時、私は本当に心が傷み、彼らに対して恨みを抱いていました。
大法を学ぶようになってから、私の性格は改善され、両親や夫に対しても配慮するようになりました。物事を考える際には、彼らの意見を聞き、できる限り多くの家事をこなし、お金に対しても損得を気にしなくなりました。私の健康も良くなり、注射や薬も必要なくなりました。これらの変化は家族も見ており、全員が私の法輪大法の修煉を非常に支持しています。
過去に蓄積された怨恨心の物質は、修煉後も時々現れ、私の心性を試します。時には、彼らが以前一緒に私をいじめたり、私に傷つく言葉をかけたりしたことを思い出すと、全身が震えるほど怒りがこみ上げてきます。ある時、車を運転していると突然その怨恨心の物質が湧き上がり、私の大脳を支配して彼らを罵らせました。私は車を道端に停め、ハンドルをバンバン叩きながら大声で泣きました。しばらくして冷静になったとき、私はまたもや騙されてしまった悟り、その怨恨心の物質を抑えきれず、理性を失ってしまったことを反省しました。そのとき、私は心の中で強い念を発し、師父にこうお願いしました。「師父、この怨恨心は私ではありません。心の中の辛い感じも私が望むものではありません。どうか、師父、これを取り除いてください、私は師父の真の弟子になりたいのです」。私は涙ながらに言い終えたとき、体の中で「シャー」という音がし、まるで一塊の物質が引き抜かれたように感じました。その瞬間、私の大脳は明晰になり、体は軽やかで、心の中に辛い感じは全くなくなりました。私は涙を拭きながら、先ほどの「偽の自分」がまるでピエロのように叫んだり叩いたりしたことを笑いました。
その瞬間、私は法輪大法の奇跡を体験しました。師父が私の側におられることを実感し、肝心な時に師父にお願いし、大法を思い出し、自分が大法弟子であることを忘れなければ、実際には何をする必要もないことを悟りました。その時、師父は私の心が正念で動いているか人間の考えで動いているかを見ておられ、正念を持っていれば、師父はその悪い物質を取り除いてくださるのです。
今では、以前の怨恨心はなくなり、昔の出来事を思い出しても心は穏やかで、まるでそれが自分の身に起こったことではないかのように感じ、まるで観客が劇を見ているかのようでした。師父の無限の御慈悲に心から感謝しています。
内に向けて探し、嫉妬心を取り除く
最近、自宅で子供弟子と話をしているとき、突然彼らのクラスのある「優等生」の話題になりました。私は「彼はあなたたちのクラスで最も優秀な学生なの? あなたと彼の関係はどうなの?」と聞きました。すると、子供弟子は軽蔑するような口調で「お母さん、彼の成績は実は最も良いわけではないし、彼には多くの欠点もあるよ。それに、私は彼と友達になりたいわけでもない」と言いました。その後、子供弟子はその「優等生」の欠点を次々と挙げ、面白がって言葉が出ないほど笑いました。
この光景を見て、私は呆然としました。子供同修の口調がどうしてこんなに傲慢になっているのでしょうか? どうして彼が見ているのは他人の欠点ばかりなのでしょうか? 私は最近、子供をうまく導けていなかったことに気付きました。一緒に法を学ぶ時間も少なく、法に関する交流もほとんどなかったのは私のせいだと反省しました。そして、子供は私自身の鏡のような存在で、子供の修煉状態は私の修煉状態を反映していることも理解しました。子供の態度には嫉妬心の現れがあり、私はこの点について自分を探すべきで、自らを正す必要があると感じました。
絶えず学法し、内に向けて探すことによって、私は自分が姉(同修)に対して抱いていた嫉妬心の物質を発見しました。小さい頃の私は、頭があまり良くなく、成績も芳しくありませんでした。一方、姉は私よりもずっと賢く、成績もずっと良かったのです。大学に入ったとき、私は専門学校に入学しましたが、姉は4年制の国立大学に合格しました。その後、私は農村の中学校で教えているのに対し、姉は模擬講義の成果が良く県内の中学校に採用されました。修煉を始めてからも、姉は三つのことにおいて私よりも精進していました。時々、私は「姉は子供の頃から何でも私より優れている。どうせ追いつけないのだから、姉の後ろでゆっくりついていこう」と思うことがあります。しかし、実際には、私の空間場には濃い嫉妬の物質がどんどん強くなっていることに、自分ではまだ気づいていませんでした。
最近、姉は家庭の忙しさや仕事のプレッシャーで、学法や修煉の時間を確保できないことが多くなりました。私はそのような姉の状況を見て、姉のために正念を発するのではなく、会うときには責める言葉ばかりを言っていました。私の「人に教えたがる」傲慢で自尊心の強い自分が完全に表に晒されました。振り返ってみると、私のその心は本当にひどいもので、全く慈悲心がなく、同修に対して正念をプラスすることもなく、むしろ姉の空間場にネガティブなエネルギーを投げてしまい、邪悪を喜ばせるようなことをしてしまいました。姉はその時、どれほど悲しかったことでしょう。
師父の説法から、嫉妬心にはある一定の覆い隠す性質があることを悟りました。以前、私は表面上でこの嫉妬の物質の存在を見つけ、自分は師父の教えに従い内に向けて探したと思っていましたが、実際には自分を欺いており、法に基づいて本当に理解していたわけではありませんでした。幸いにも、師父は子供を通して私に気づかせてくださり、私は表面的な理解を超えて、嫉妬心を深く掘り出すことができました。この嫉妬心をしっかりと引き出し、完全に取り除く決意をしました。
実際、この嫉妬心の背後には名・利・情が潜んでおり、その根源は自己中心的な私(し)の心にあります。これらを悟った後、私は師父の説法に従い、常に着実に修煉するように注意を払い、一つの言葉一つの行動を法の基準で照らし合わせ、他人の良い点を多く見るようにしました。他人は私の鏡であり、問題を見つけたら自分を修正するようにしました。大法により自分を修正していく中で、他人が何か良い成果を達成したら心から喜び、他人が困難に直面しているときにはまず自分を探し、他人の不幸を喜ぶのではなく、本当に心から助けたいと思うようになりました。
嫉妬の物質が私の空間場で徐々に減少しているのを感じ、私の話も同修や家族が受け入れてくれるようになりました。環境が心によって変わるということを本当に体験しました。
法輪大法を修煉し始めてからの数年間、慈悲深い師父が私の手を引いて今日まで導いてくださいました。残された時間の中で、私は自分をしっかりと修め、師父が託してくださった三つのことをよりよく行い、できる限り努力して多くの衆生を救い、誓約を果たし、圓満して師父と共に帰ります。