執着を放下し、病業を突破
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文/ドイツの大法弟子

 【明慧日本 2024年9月13日】 私は、1999年の夏に法輪大法を学び始めました。25年間の風雨を経て、師父の導きのもと、今日まで歩んできました。

  ここ2年間、私は修煉を怠っていました。毎日煉功学法を行い、真相を伝える活動には参加していましたが、心性の向上と執着心を取り除くことにおいては自分を甘やかしていました。三つのことも表面的に行っているだけで、誓約を果たし衆生を救う願望はありませんでした。しばしば4つの正時に正念を発することができず、これにより私の空間場は汚れた物質で満たされてしまいました。

  次第に、私は苦悩と不平不満に支配されるようになり、大法修煉者が持つべき慈悲の心を失ってしまい、確固たる信念と正念を失っていました。特に家族の前では、否定的な感情を表に出し、家事や食事が自分の提案通りに行われないことに不満を漏らし、しばしば声を荒げることもありました。徐々に体が弱くなり、病業の状態が現れ始めました。最初は声に問題が生じ、話すと痛みを感じ、声に甲高い雑音が混じるようになりました。その後、口腔の右側に痛みが出始め、口を2センチ程しか開けられなくなりました。

  私はフルタイムで働いており、家庭の唯一の収入源であるため、大きなプレッシャーを感じながらも仕事を続けていました。最終的に、同僚の前で状態を隠せなくなり、医者に診てもらう必要性を感じました。口腔に腫瘍があると診断され、入院することになりました。

  当初は、治療を受けながら修煉を続けられると考えていました。医者から病気休暇をもらい仕事に行かなくて済むのだから、医者の治療法も受け入れるべきだと自分に言い訳をしていました。しかし、真の理由は強い正念を持っていなかったからです。ただ受動的に耐えているだけで、大法修煉者としての揺るぎない決意を持って問題に向き合っていませんでした。

 真の大法弟子として生まれ変わる

 娘が私に、自分が本当の大法弟子であるかどうか自問すべきだと促してくれました。そこで私はノートを買いました。最初に書いたのは「大法弟子とは何か?」という問いでした。見つけた答えは次のようなものでした。「困難や矛盾に直面したとき内に向かって探し、勤勉に法を学び、理性的に法を実証し、常人の欲望や執着を放下する人」です。これが私が達成すべき境地でした。

  病院の外来で様々な検査を受けている間、自分の修煉における欠点に気づきました。

  自分の病業の状態について明確な認識がなく、どのように対処すべきか分かっていませんでした。数カ月前に、とても鮮明な夢を見ました。夢の中で、多くの人の処刑書に署名していました。この夢から、偶然な出来事はなく、まだ返すべき業があることに気づきました。今、私たちは法を正し人々を救う時期にいます。ほとんどの業力はすでに師父によって取り除かれています。もし生命が傷つけられたなら、最終的には補償が与えられるでしょう。

  師父はおっしゃいました。「大法弟子が歴史上、作った仇と恨みは、修煉して圓満成就する過程で、向上の要素とし、さらに福報をもって、恨みを解消し、償うのです」(『ロサンゼルス市法会での説法』)

  私は何を理解したのか

  私たちには邪悪と妥協する余地はなく、唯一の道があるだけです。旧勢力の按排を認め、薬を認めることは現代科学が私に与える影響を認めることになります。人間の知恵で判断していたのです。例えば、現れた病状が私にとって危険かどうかなどです。このようにすると、医療手段が効果を発揮しているかのような偽りの現象が生じます。大法弟子として師父が私を管理してくださっているのですから、師父の按排に従って歩み、真・善・忍によってすべてのことを判断してこそ、円満に達することができるのです。私は悟りました「師父の按排が最良なのです!」

  『2019年ニューヨーク法会での説法』から、旧勢力は介入する権利がないことを理解しました。なぜなら、それらは滅びる段階で生じたものであり、初期の状態がどのようなものだったかを知らないからです。初期の状態を知っているのは師父だけであり、法を正し初期の状態に戻るのです。

  師父は私たちに教えてくださいました。「あなたの道はあらかじめ用意されていたので、病気にかかることは許されていません」(『各地での説法十五』〈2019年ニューヨーク法会での説法〉)

 私は額縁を買い、師父の写真を家のリビングの棚に飾りました。数日間、心の奥底で「私の師父、私の師父」と唱えていました。

  1週間後、私は進行中の放射線治療と化学療法を中止しました。敬愛する師父を完全に信頼しています。修煉において、私は師父の按排だけを望みます。

  病院にいる間、大法弟子として私はここにいるべきではないと気づきました。どうして自分を病床に縛り付け、毒性のある薬物を注入することができるでしょうか! これは迫害のようなものです。このような状況では、法をよく学ぶことも煉功することもできません。家に戻ってから、病院に行ったのは間違いだったと気づきました。特に、医師たちがまだ様々な診断を続けていて、例えば血圧を下げる薬を飲むよう勧めたり、肝臓検査をするよう求めたりしていました。

  間違いを犯したら改めればいいのです。私は病院に電話をして、もう治療を受けないと伝えました。それでも数日間、病院から電話がかかってきました。これも私の信念と決意を試すものでした。最初は電話の着信音に驚いて、内心震えていました。折り返し電話をしても誰も出ませんでした。医師、つまり現代科学の代表者の前で、自分の信仰を擁護するのは難しかったのです。堂々と自分の信仰に従うことを恐れていました。

 この態度は、姉妹に対しても同じでした。彼女は私を助けようと努力し、多くの代替製品やアドバイスを与え、問題にどう対処すればよいか提案してくれました。私は自分の信仰に従う勇気(妥協しない)が必要だと理解しました。姉妹の思いやりに感謝し、今こそ本当に信じる時だと伝えました。病院に手紙を書いて正式に治療契約を終了しました。その後、病院からの電話はなくなりました。

  3カ月間仕事に行けなかったので、医師の診断書が必要でした。医師に治療を中断したことを伝えました。これには勇気と正念が必要でした。自分の理解を説明し、信仰の選択をしました。落ち着いた心で医師に決定を伝え、個人的な理由によるものだと説明しました。医師は余計な質問をせず、理解を示してくれました。再び診断書が必要になったとき、その医師は休暇中で、同僚のところに行かなければなりませんでした。私自身の心が不安定だったため、その医師は理解を示さず、否定的な例や診断、医学的知識で私を脅し、非合理的だと言いました。さらに、軽蔑的に神を信じているのかと尋ねたので、私は「はい」と答えました。最終的に診断書をもらうことができました。

  明確な理解を得て決断を下した後、私の症状は改善し始めました。しかし、その後にすべきことは、自分の執着を見つけて放下することでした。

 私はどのような執着と人の観念を見つけて放下したか?

  人間世界の幸福を追求すること。例えば、家庭の調和を望み、矛盾を見たり聞いたりしたくありませんでした。2人の娘が学校でよく勉強し、良い成績を取ることを期待し、毎日美味しい料理がテーブルに並び、時々ケーキも欲しいと思っていました。家がきれいで、家電製品がすべてよく機能することなどを期待していました。これは中毒のようなものでした。これらの幸福への幻想が実現されないと、不幸を感じ、過食や過眠、部屋の掃除、あるいは家族をコントロールしようとしていました。時には復讐心さえ抱きました。「待っていなさい、私がいなくなったらどうするの」。私が苦しむなら、他の人も苦しむべきだと思っていました。

 真の幸運とは大法を得ることであり、私の誓いを実現し、私が救うべき衆生を師父が救ってくださることを助けることです。

 快適な生活を追求すること。明慧網の交流文章『生死を放下した後、10日で洗脳班を脱出』を読んだとき、病業の状態を取り除きたいという強い願望と、奇跡が起こって万事うまくいくことを期待していることに気づきました。痛みや病気、規則を守らない不快な隣人など、私を不快にさせるものを好みませんでした。反対に、買い物で安い商品を見つけたときなど、得をすると嬉しくなりました。この部分を修煉によって取り除きたくありませんでした。法を学ぶことで、失うことと得ることの問題を理解し、人心が現れたときに真・善・忍に従って行動することを学びました。慈悲と平静な心ですべての人に接することができるようになりました。

  直感的な人間であることが良いという観念がありました。例えば、感覚で物事を行うことを誇りに思っていました。料理やケーキ作りなどです。多くのことを自分の感情や環境に基づいて行っていました。

 大法弟子として、法に基づいて何をすべきかを判断し、それが真実で、正直で、慈悲深く、伝統的で、理性的かどうかを判断すべきです。法理は変わらないものであり、そこから知恵が生まれます。

 信仰に疑いを持たないこと。以前は正念が強くなかったため、法への信念が不十分で、法を十分に信じていないと考え、良い修煉者ではないと思っていました。実際、25年前に修煉の道を歩む決心をしてから、私の信念は深まり、より強固になっていました。師父と法を信じており、誰も私を動揺させることはできません。

 以前は、善は悪に勝てないという観念を持っていました。幼少期に家庭内で性的虐待を経験し、生き延びるために偽りの自己を作り出し、危険や困難に無関心になりました。些細なことに集中し、内心は引きこもり、不安で、不信感を抱き、受動的になり、他人を羨むようになりました。例えば、学校で答えを求められたとき、ただぼんやりして答えられず、受動的に「危険」が過ぎ去るのを待っていました。『九評』では、中国人が専制政党の下で形成した観念は、臆病であることが生存の道だと述べられています。しかし、私たちは法に同化しなければなりません。師父はおっしゃいました。「一正が百邪を圧する」(『転法輪』)

 修煉者として、勇気を持ち、法を信じなければなりません! 大量に法を学び、正念を発し、内に向かって探すことで、師父の加持のもと、一つ一つ関を乗り越えてきました。常に師父が私の傍にいてくださるのを感じることができます。師父の慈悲深い加持に心から感謝しています。

 また、家族の同修にも感謝しています。彼らは正念で私を励ましてくれました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/9/7/481582.html)
 
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