同修の逝去からの啓示
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2024年9月20日】私は、多くの修煉者の死を経験してきました。通常、大法を修煉している人が亡くなっても、正果を得ていることが多いのです。多くは菩薩や佛の姿であり、果位を成就しているため、一般の人々がその人の功績と過ちを論じることは不敬に感じられることがあります。そのため、多くの人が口を閉ざすことを選びました。

 時には、私は亡くなった同修の元神と、ある程度のコミュニケーションを取ることができます。そしてその当事者は、少し理由を示してくれることがあります。これまでまとめたことはありませんでしたが、最近になって、その当事者が示してくれたことは、亡くなった理由だけでなく、まだ修煉している同修に対して何らかの啓示を与えたかったのだと悟るようになりました。これは、覚者の慈悲とも言えるでしょう。

 7月に、叔父(同修)が逝去しました。以下に私が見た景象を、私の理解の範囲で述べたいと思います。

 その日、私は電話を受けてすぐに駆けつけました。2人の同修が叔父の元神を呼び戻そうとしていました(俗に「魂を呼ぶ」と言います)。私は叔父の元神と簡単にコミュニケーションを取った後、正念を発しました。その時、叔父の姿が見えました。彼は私たちの発正念にあまり耐えられず、効果がないと感じているようでした。私は気にせずに発正念を続けました。すると、傍らに立っている神が見え、僧衣を着ており、坊主頭で、手を立てていました。その一方で、叔父のお腹の丹田部位には半明半暗の黒い蓮花盤があり、心臓には黒い生命が座っているのが見えました。皆が悲しんでいたため、正念を発してもあまり効きませんでした。次に120番に連絡し、救急車が来ましたが、救急の効果はありませんでした。救急車が去った後、110番に連絡し、葬儀社が来ました。その日一日、このように過ぎました。

 翌日の早朝、私は通常通りに煉功しました。静功を行っている時、叔父の元神とコミュニケーションを試みました。その時、叔父は普段の疲れた姿で現れ、目が開けない様子でした。彼の身体の表面はまるで硬い皮をまとっているようでした。これにより、叔父の逝去の理由は、長い間主意識が強くなかったこと、特に学法や正念を発する際にしばしば眠ってしまったことにあると分かりました。また、皮膚の病気もあり、かゆみが出ると掻き、最終的には身体全体が悪化した皮膚で覆われてしまいました。これらの理由で、彼は解脱できなかったのです。

 その時、叔父は別の姿で現れ、大きな蓮花盤の上に立っていました。これにより、叔父が修めた部分と修められなかった部分が分かれていることが分かりました。

 私は続けてコミュニケーションを取り、叔父が転生するのか、ある場所に留まっているのかを尋ねました。叔父は、ある場所に留まっていると答えました。さらに叔父の成就について尋ねると、頭が重なった佛像の一部の景象が現れました。各佛の頭は金色に輝いていました。頭が重なった佛像の最下層は、佛の頭が多いので、台座が形成されていて非常に壮大でした。

 その後、私は叔父に、大法弟子の使命と責任を全うすること、より多くの衆生の救い済度を行うべきことなどを話しましたが、返事はありませんでした。その後、発正念のとき、叔父の身体を清め続けました。

 その夜6時、私たち数名の同修は正念を発し、引き続き叔父の身体を清めました。突然、目の前が金光で輝き、大きな光が現れました。叔父は赤い袈裟を身にまとい、青い巻き毛を持ち、若々しい顔をしていました。左手は胸前に立てており、右手は掌を外向きにしていました。彼の背後には大きな光の円があり、そこから金光が放射されていました。これほど鮮明な佛像は見たことがありませんでした。心の中で疑問を感じたため、正念を発し続けました。数分後、佛像は消えました。

 3日目の早朝、私は通常通り煉功を行いました。静功を煉るとき、叔父ともう一回コミュニケーションを取り、状況を考えて人間に戻ることを勧めましたが、反応はありませんでした。午前中、遺体は火葬されました。骨灰の写真では、頭骨が非常に鮮やかなピンク色で目立っており、これは仏教で言うところの舎利だと思われ、高エネルギー物質に置き換えられていました。その後、みんなで見ると、骨の多くは青色、紫色、褐色、白色などの舎利がありました。さらに詳細に見ると、いくつかの骨には人の頭の形が描かれており、大きな鼻のあるもの、五官がはっきりしたもの、女性の形があり、さらに非常に悪い顔のものもありました。この時、私は叔父の解脱できなかった理由が分かりました。

 個人的な理解ですが、このいくつかの生命の業が返済できなかったため、叔父はこの世に戻れなかったのです。もし戻っても、まだ以前のぼんやりしている状態が続くかもしれませんし、さらに下に落ちる可能性もあります。そして亡くなった翌日に現れた佛像は、実際には叔父が完全に功を開き、悟りが開いて、修煉が成就でき、世に戻る必要はないことを示してくれたのです。

 私が見る限り、同修の逝去はすべて迫害によって引き起こされたものです。逝去した同修の体には、旧勢力の邪悪な生命が占拠しているのが見えました。多くが黒い形をしていました。そのため、逝去した同修の体が焼かれる前に、正念を発してこれらの黒い邪悪な生命を清める必要があります。

 師父の説法でも、師父が大法弟子が早期に逝去することをお望みになっていないことがわかりました。なぜなら、衆生の救い済度に人手が必要だからです。一人の大法弟子は、多くの衆生の命を救うことができます。

 しかし、同修一人一人の逝去は、理由があって引き起こされたのです。私が知る同修は、普段から2つの業力の問題が解決できませんでした。一つは長期間の眠気です。学法、発正念、煉功中の眠気が続き、20年以上突破できませんでした。もう一つは皮膚の業力で、全身性強皮症にかかり、死亡率が最も高い混合性結合組織病の一つとされ、皮膚の硬化が非常に顕著で、末期になると、大部分の患者は左心機能不全の兆候が見られ、疲労の後、呼吸困難、動悸が現れ、たまに胸痛があります。叔父の場合、救急車が来て救急の結果、心筋梗塞による突然死となりました。

 私が2回目に叔父の姿を見た時に全身が厚い皮膚で覆われていたのは、体が業力によって覆われていたことを示していました。叔父は、延命されていたのかもしれません。叔父の骨灰を見て、そこに何人かの頭の形を見て、私はすぐに、これらの生命は叔父に怨恨が深く、ずっと叔父を逃がそうとしなかったことが分かりました。叔父の長い間の眠気とぼんやり、皮膚病業からの苦しみと悪化は、これらの生命がもたらしたのです。これらの生命が善解しようとしないからこそ、旧勢力に迫害の口実を与えたのです。なぜこれらの生命はずっと叔父の体から離れないのでしょうか。彼らは、体を離れると大法弟子が生き返ることができると知っているので、彼らは最後までコントロールし、遺体が燃やされて、やっと業を返済してもらうことが済みました。

 ある意味で、叔父の状態は、当時の釈迦牟尼仏の状態に似ています。釈迦牟尼仏の指の骨を多くの人は見たことがあり、すでに高エネルギー物質に置き換えられましたが、彼が救った衆生の業力のために、自分の身体を持ち去ることはできませんでした。そのため、業力を消すために遺体を焼き、巨大な業力を償うしかありませんでした。叔父や他の多くの逝去した同修も同様で、焼かれた骨の多くはいろいろな色の舎利で、身体はすでに高エネルギー物質に置き換えられているものの、一部の業力の怨恨が深く、また救い済度した一部の衆生の業力も残っているため、自分の身体を解脱することができず、焼却することで業を清算しなければなりませんでした。私が悟ったところによれば、師父はこの時、この状況を利用され、大法弟子の解脱できない業力を、修煉が不完全な身体に送り込み、常人の火で焼却することで処理するしかなかったのです。

 叔父は、生前に多くの人を救い済度する活動とプロジェクトに参加し、非常に堅実な大法弟子でした。業力の妨害が非常に厳しい中でも、毎日の学法や煉功を怠らず、最も精進していると皆に認められていました。叔父の経験から私たちが得られる教訓は、以下の通りです。

 1)長期間突破できない業力の妨害には必ず深い理由があります。突破できなければ、迫害されて亡くなる口実になる可能性があります。これらの業力は人の意志を弱めることが多いため、主意識を強化することが非常に重要です。このような状況の同修は、主意識への深刻な妨害を改善する方法を見つけなければなりません。

 2)大法を実証し、衆生の救い済度をしっかりと行うためには、良い修煉状態と健康な体を保つことが重要です。良い体がなければ人の救い済度ができません。学法と煉功をしっかり行うことを重視しなければなりません。

 叔父の骨灰を見て、体がすでに多くの高エネルギー物質に置き換えられていることが分かりました。表面的にはまだ多くの業力を持っていますが、実際に叔父は大きく変わっていました。ですから、表面上の体の業力の現れを用いて、内面的な変化を否定してはいけません。

 3)精進していない同修に対しても、これは一つの啓示なのです。表面的な変化が見えなくても、大法を修煉することで自分の生命の次元が変わります。叔父は頓悟のような状態で、別の空間に対する感覚は少なく、普段は悟性が高いわけではありませんが、成果を上げたのは、一人の大佛になったということでした。大法を修めるだけで変わっているので、自分が体験していないからといって効果がないと思ってはいけません。大法修煉によって成就されるのは大果位であり、決して信ずる心を失わず、努力して精進しましょう。

 この例は修煉の厳粛さを示し、叔父の教訓を得て、他の同修がそれを通じて精進して真に修め、これからの大法の実証と衆生済度をしっかり行うことが、叔父が望んでいることなのです。

 以上はあくまで個人的な悟りです。参考程度にしてください。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/9/3/481492.html)
 
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