観念を変えれば投稿文章を書くことは難しくない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年9月23日】第21回明慧法会の投稿期間が半分以上過ぎましたが、周りの同修は誰も筆を執ろうとしません。私は彼らに投稿することを促しましたが、彼らは様々な理由を挙げました。修煉がよくできていない、文章が書けない、書くことがないなどでした。実際、周りの同修の多くはしっかり修煉しており、20年以上の迫害の中で着実に歩み、三つのこともしっかり行っています。中には、学生時代に非常に優れた作文を書き、先生が見本として他の生徒に読ませるほどの文章力のある同修もいます。しかし、これらの同修は、投稿という点において、自分の考えを変えることができません。もしかしたら、私の修煉において慈悲と善心が足りず、彼らを動かすことができないのかもしれません。

 子どもの頃、周りの大人たちがよく「勉強なんて役に立たない」と言っていたので、私も小さい頃から本を読んだり勉強したりする習慣がつきませんでした。学校もよくサボっていたので、中学校を卒業した時には、国語の力は小学2、3年生程度しかありませんでした。知らない漢字がたくさんあり、ローマ字も読めませんでした。簡単な文章を一つ作るのも時間がかかり、ましてや作文など書けるわけがありませんでした。

 大法を修煉し始めた後、2006年から明慧ネットを見るようになりました。毎日パソコンの前に座って明慧ネットの交流文章を読むたびに、同修たちの書いた文章に感動し、彼らの悟性と文章力に感心しました。私もいつか自分の書いた記事が明慧ネットに掲載されることを夢見ていました。そのため、この十数年間に、明慧ネットに交流文章を何度か投稿しました。中には掲載されたものもあれば、掲載されなかったものもありました。しかし、明慧法会の交流文章の投稿については、先ほど述べた同修たちと同じように、自分とは関係ないことだと思い、全く考えてもいませんでした。

 昨年の明慧法会の投稿が始まった時、私も他の同修たちと同じように、まったくやる気になれませんでした。しかしある日、明慧週刊で読んだある同修の交流文章(内容は忘れました)に感銘を受け、考え方が変わりました。中国の法輪功修煉者として、明慧法会に参加することはとても神聖で名誉なことだと気づき、私も参加したいと思うようになりました。そう思った瞬間、頭の中に次々と書きたいことが浮かび上がってきました。その後1週間ほどかけて、法会に投稿する文章をじっくりとまとめ、何度も推敲し、文章が得意な同修にも見てもらいました。このプロセスはとても良い経験でした。自分の中の執着や人心を見つけ出し、忍耐強さや細部への気配りを身につけることができました。文章を書くことは、心を修めるための修煉そのものだと感じました。絶えず自分を正していくことで、結果よりも修煉の過程が大切だと気づきました。

 師父は「皆さんは困難を前にして自分の道を歩んだのでしょうか? 皆さんが法を実証する中で、困難を前にしてどのようにしたらよく行うことができるのかを自ら考え、手に入れた成功が自らの努力の結果であれば、これこそ素晴らしいのです」(『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」)

 師父が説かれたことは、一つ一つが普遍的な真理です。私たちがすべきことは、この心を修煉することです。常人の持つ、困難を恐れる気持ちのような観念を本当に改めれば、師父が必ず助けてくださいます。実際、全ては師父がしてくださっているのです。

 最後に、中国の同修の皆さんに改めてお伝えしたいことがあります。観念を変えれば、投稿文章を書くことは本当に難しいことではありません。すぐに書き始めてみましょう。このような機会はそう多くはありません!

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/9/12/482053.html)
 
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