文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年5月2日】ある同修・黄さん(仮名)は、修煉における深刻な問題が旧勢力に利用されたため、長年にわたり病業の症状に悩まされてきました。しかし、この同修は問題を隠蔽し、他の同修から指摘されても、問題を直視したり、内に向かって探したりすることなく、師父の法を無視して大げさに引用していました。
ずっと以前から、私は黄さんの問題点に気づき、彼についてある観念を抱いていました。彼は、口は達者ですが、修煉がしっかりしておらず、他の学習者の修煉を妨害しているようにさえ思えました。私が彼に対して「助ける」ことは、必ずしも心からのものではないです。私は自分がこのような観念を抱いていたことに気づいていませんでした。私は黄さんの欠点を巧みに語るようになり、「同修が騙されないようにする」と称して、他の修煉者を説得して黄さんに対する私の見解に賛同させようとさえしました。
ある日、私は同修・于さん(仮名)で彼を訪ね、修煉における問題点を自覚させようとしました。しかし、黄さんはいつものように言い逃れをし、大げさな返答をしました。于さんは落胆して立ち去りました。
予想通りの結果でしたが、私は于さんの考え方が私とは全く異なっていることに気づきました。于さんは彼の長所を認め、欠点には触れず、彼が自ら問題を自覚してくれることを期待していました。この時、私は黄さんに対しての観念が固執していることに気付きました。彼に対する私の見方は、完全に後天的なもので、私の本当の自分とはかけ離れていました。私の観念が彼との間に障壁を作り、私の助けが彼に届かなかったことに気づきました。そして、その障壁は私の観念が強くなるにつれて、私をますます孤立させ、私の修煉にも深刻な影響を与えていました。
なぜ、私はこのような観念を抱いたのでしょうか? 自分を省みると、もっと深いところに理由がありました。修煉を始める前から、私は様々な人との接し方について、ある観念を抱いていました。私は正直で親切な人と過ごすのは楽しいけれど、言葉巧みで中身のない人を避ける、といった具合です。私はこの観念で人を判断し、この修煉者を後者に分類していました。私は彼の外見や振る舞いを彼の真の姿だと勘違いし、法に基づいて何が本当に正しいのか、何が間違っているのかを見極めることができなかったのです。
師父は私たちにこう説かれました。
「皆さんは同じ修煉者です。皆さんは敵ですか? 皆さんは同じ目標のためにこの世で人を救っており、皆さんは最も親しい間柄で、お互いに助け合うべきです。相手のことを気に入らないのですか? その人の表面の姿、行動は人間の世での表れに過ぎません。しかし、皆さんは神から来たのではありませんか? 神になっている部分はこのように対処するのですか? 修煉の角度から見なければなりません」(『各地での説法十四』「大法伝出二十五周年ニューヨーク法会での説法」)
修煉者の間にある障壁こそが、私たちが一つにまとまらない原因であり、これらの障壁は私たちが身につけた観念から生じていることを、私は今になって理解しています。修煉における試練を乗り越える唯一の方法は、これらの障壁を取り除き、互いに助け合い、ひとつの全体を形成することです。
個人的な認識なので、法に基づいていないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。