文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年10月3日】私は今年で76歳です。古書『大学』には「大学の道は、明徳を明らかにするに在り」との一節があります。これは、大学の道は真理を追求し、人格を健全にすることにあるという意味です。私は幼い頃から、成長したら高等学校に入り、大学で学び、道徳や文化の修養を高めることを夢見ていました。大学受験の夢を何度も見ましたが、現実でも夢の中でもその願いは叶いませんでした。大学に行けなかったことを後悔することが多く、長い間心残りに感じていました。
1996年、私は幸運にも法輪功の創始者である李洪志先生の著作『轉法輪』という宝の書を拝読する機会がありました。この時、非常に感動し、これは私が長い間待ち望んでいた高等学校、すなわち佛法修煉だと感じました。それ以来、私は『轉法輪』を手放すことなく、毎日第二講を学び、時間があれば法を写し、暗唱していました。
1999年以前に『轉法輪』を9回書き写し、近年ではさらに3回書き写しました。2010年には『轉法輪』を暗唱しました。法を写したり、暗唱したりすると心がすぐに静まり、法輪大法が私の知恵と視野を広げてくれました。法輪大法の「真・善・忍」の法理や、宇宙や生命の起源についての教えなどは、非常に神秘的で不思議に感じました。私は、先生が私を大学に導いてくださり、大学に行くという私の長年の願いを叶えてくださったと感じています。
一、法輪大法を学び、災難を免れる
1996年、50歳を過ぎた夫が重病で寝たきりになりました。私自身も多くの病気を抱えていましたが、それでも夫の世話をしなければなりませんでした。体の小さな私が、毎日150斤(約75kg)の夫を抱えてベッドに上げ下ろししなければならず、さらに彼を車椅子に乗せて庭に出て、日光浴をさせる日々が続きました。隣人が私たち夫婦を気の毒に思い、夫に「体調が良くないなら、法輪功をやってみたらどうですか? 法輪功は本当に素晴らしいです。私は病気がすっかり治りました」と勧めてくれました。しかし、夫は修煉を始めるには足を組む必要があると聞いて、痛みを恐れて修煉には踏み出せませんでした。一方で私は隣人に頼んで、法輪功の主要な著書『轉法輪』を手に入れ、それ以来その宝の書を手放すことなく、師父についていき、法輪功の修煉の道を歩むことを決心しました。
修煉を始めたばかりの頃、私は高いレベルの法理を悟ることはできませんでしたが、多く学び、心性を高め続けることが大切だと感じていました。毎日欠かさずに法を学び、煉功を続けていました。すると間もなく、私は自分の身をもって法輪大法の修煉が、病を治すだけでなく、体が軽く健やかになるということを体験しました。また、危険な状況に直面した時には、師父の法身が私を守ってくださり、災難を免れたこともありました。
ある年、我が家の庭に大きく茂ったイチジクの木を植えました。数年後、その木の先端が二階を越えるほどに成長し、二階の住人の採光を妨げるようになっていました。私が50歳を過ぎた年の夏の日に、枝を剪定しようと大きく茂ったイチジクの高い木に登りました。片手に大きなハサミを持ち、もう片方の手で幹を掴んでいましたが、なんと掴んだのは枯れた枝でした。「パキッ」という音と共にその枝が折れ、私はバランスを失い、木から落ちてしまいました。体がまず一階のコンクリートの壁にぶつかり、その反動で後ろに倒れ込み、「ドン」という音を立てて地面に激しく叩きつけられました。その時、私は一瞬驚きましたが、すぐに「私は修煉者だ。師父の法身が守ってくださる、大丈夫だ」と思いました。
ちょうどその時、娘が家の中から物音を聞きつけて飛び出してきました。私が木から落ちたのを見て、娘は驚き、泣きながら駆け寄ってきて、「お母さん、大丈夫ですか?」と叫びました。娘に支えられて私は立ち上がり、体の埃を払いながら笑って「泣かなくていいよ。お母さんは法輪功を修煉しているから、師父が守ってくださるんだよ。大丈夫!」と言いました。本当に何ともありませんでした。正直言って、もし普通の人が二階ほどの高さから落ちたら、50歳を過ぎた体では、頭が割れて血を流すくらいの大怪我をしても不思議ではありません。しかし、私は腰の皮膚が少し紫色になっただけで、何の影響もなく、毎日夫を抱えてベッドに上げ下ろしすることができました。
この出来事の後、私は師父が命を守ってくださっただけでなく、病業も消してくださったことを実感しました。修煉を始める前、私は深刻な腰痛を患っており、痛みがあると何もできませんでした。中国の東洋医学と西洋医学、両方の医療を試しても治りませんでしたが、今回の転倒をきっかけに過去の借りを返し、腰痛も完全に治りました。まさに災難を免れ、幸運を得たのです! この出来事を通して、私と家族は法輪大法の超常的な力と奇跡を目の当たりにしました。その後、私の娘や実家の嫁も法輪大法の修煉の道に入りました。
二、大法が迫害され、北京に行き護法する
修煉を始めてから、私は毎日法を学び、法を書き写すことを続け、徐々に正法修煉の法理を理解し始めました。そして、次第に大法が私の生命を造ってくださったことを悟り、今の自分が法のためにこの世に生まれてきたのだということがわかってきました。これらすべてが、1999年7月20日以降の真相を伝え、人々を救うための堅実な基盤を築いてくれました。
1999年7月20日、罪深い江沢民の一派が法輪功に対して濡れ衣を着せ、嘘とメディアの操作を使って世間を毒しようとしました。私は、法輪大法が正法であることを証明するために北京に行くことを決意しました。出発する前、娘にこっそりメモを残しました。「娘よ、私は北京に護法しに行くよ」と。私は『轉法輪』を持ち、3本の横断幕を背負って北京に向かいました。道中、私はずっと「政府に大法の師父の清廉さを取り戻してもらいたい! 大法のために公正なことを言わなければ!」と思っていました。天安門広場に着くと、広場は厳重な警備が敷かれ、警察や私服警官が至る所にいました。私は勇気を振り絞って天安門広場に入り、「法輪大法は正法だ!」と書かれた横断幕を両手で高々と掲げました。その瞬間、私は計り知れない誇りを感じました。しかし、すぐに数人の警察が飛びかかってきて、私を無理やり警察車両に連れ込み、地元の派出所に送られました。一週間後、私は地元の警察に連れ戻されました。警察は地元の派出所に私を連れて行き、お金を要求しましたが、私は「お金はない」と答え、その夜のうちに家に帰されました。
三、生死の試練、師父の保護
10年前、私は同修に『九評』や小冊子などの法輪功迫害の資料を届けるために電動自転車に乗っていました。大きな橋の南北に続く道を走り、交通量の多い交差点で車を止めたときのことです。突然、車が正面から突っ込んできて、避ける間もなく、すぐに何もかもわからなくなりました。後で事故の加害者の若者2人から聞いた話では、私は正面から来た車にぶつかり、両膝をついて倒れ、頭を車にぶつけて割れてしまい、顔中が血まみれになったそうです。地面には血が溜まり、私はそのまま意識を失いました。若者たちはすぐに120番(救急車)に電話をかけ、救急車が到着すると、医師がまず私の頭の傷を包帯で覆い、それから担架を用意して、私を担架に乗せようとしていました。
約10分後、私は意識を取り戻しました。周りには人だかりができ、警察車と救急車が止まっていました。若者の一人がティッシュで私の顔から血を拭いてくれていましたが、そのティッシュは血で真っ赤でした。その瞬間、私はまず「私は大法弟子、師父が守ってくださっている、絶対に大丈夫だ!」と思って、頭の包帯を手で引き剥がしました。若者は慌てて止め、「おばさん、動かないでください! 頭が割れています。病院で縫わないと!」と言いましたが、私は「大丈夫よ、心配しないで」と答えました。それでも救急隊員は私を担架に乗せようとしましたが、私はすぐに手を振って「そんなに心配しないで、私は大丈夫です」と言いました。医者は、私が頑なに治療を拒否し、しかも自由に動けるのを見て、救急車はそのまま去りました。
その後、交通警察が近づいてきて、「何か問題があるのか?」と尋ねました。私は「ありません、大丈夫です」と答え、警察は立ち去り、集まっていた人々も解散しました。私は、事故を起こした2人の若者に自転車を押してもらいながら歩きました。そして歩きながら、彼らに法輪功への迫害の真相を伝え、三退(共産党、青年団、少先隊の脱退)を勧めました。さらに、『九評共産党』と真相の小冊子も渡しました。2人は私が何一つ非難せず、むしろ彼らの安全を気遣っていることに感動し、手を合わせて何度も「おばさん、本当にありがとうございます。感謝します」と言っていました。
師父の法を学んで、私はこのような大きな試練は、自分が過去に作った業が原因であると悟りました。しかし幸いなことに、師父は慈悲深く、何度も私を救ってくださいました。この場を借りて、師父に心から感謝します。
四、師父に従い、衆生を救い済度します
法を学ぶことで、私は自分が大法の一部であり、私の使命は衆生を救い済度することであり、それを果たすべきだと、ますます理解をしました。
十数年前、夫が亡くなったばかりの頃、息子に双子の男女が生まれ、孫の世話を手伝うために呼ばれました。当時、息子は大都市にある軍隊に勤務しており、高級幹部として重要な役割を担っていました。大都市に到着した私は、師父のおかげで現地の同修と知り合いになりました。私は使命を忘れず、精進して実修し、どのようにして早く人々を救い済度できるのか、努力をしました。
日中は、法輪功について書かれた紙幣を持って街に出て、買い物をしました。一枚一枚の紙幣には、手書きで真相を記しました。また、孫たちと外に遊びに行く際には、縁のある人を見つけては真相を伝え、資料を配りました。
ある日、嫁が孫の体に印刷インクの匂いがすることに気づき(新しく印刷した真相資料にはインクの匂いがします)、「インクの匂いは、子供の体に悪影響を与えるから、真相資料を配らないでほしい」と不満を言われました。私は「そんなに怒らないで。私が法輪功を修煉していなければ、病気が治って、孫の面倒を見ることもできなかったでしょう? 良心を持たなければいけません。今、法輪功が迫害されているのに、私は何もしないで見過ごすことはできません」と言いました。嫁も私が法輪大法を修煉して病気が治ったことを知っており、大法が良いものだと認めていました。私は常に彼女のことを気にかけ、食事の際には、良いものを彼女や孫たちに譲り、残り物を自分が食べていました。彼女は非常に理解のある人で、それ以降、そのことについては何も言わなくなり、干渉もしませんでした。
夜になると、よく外に出て真相資料を配布しました。時にはかなり遠くまで歩き、運動靴の底が半分すり減るほどでした。ある時期、近所の団地で三度、大法を中傷するポスターが掲示されているのを見つけました。師父のご加持を受けながら、私は正念を発し続け、夜中にドライバーを持って掲示板をこじ開け、ポスターを引き剥がして処理しました。
数年があっという間に過ぎ、ある夏の日、私は十字路で「江沢民を世界で裁く」というステッカーを貼っていました。私はその時、近くにセールスマンのように見える一団がいることに気づかず、その中には私服警官が紛れていました。その私服警官に私は通報され、警察に不当に逮捕され、留置場に25日間拘束されました。その間、私は絶えず自分の内に向かって探し、法に基づいて修正すべき点を正しました。私は多くの人々に法輪功への迫害の真実を伝え、20人以上が共産党を脱退しました。警察は私が留置場を出る前に、修煉をしないという保証書を書くように求めてきました。私は彼らに、法輪功を学んで心身共に良くなったことを話しました。私は「書けと言うなら書きますが、法輪大法を学んでから、かつて患っていた病気が全て治り、20年以上、注射も薬も使わずに元気に過ごしてきました」と言いました。最後に私は、毅然とした態度で「修煉をやめることは不可能です!」と断りました。
息子は車で私を迎えに来て、そのままレストランに行って、食事をご馳走してくれました。それが私にとって大きな慰めと励ましになりました。家に帰ると、息子は「母さん、部隊でも母さんのことが知られています。610弁公室の部隊の人が僕に、『地元の派出所には連絡しないので、大姨(お母さん)は故郷に帰るように』と言われました。この部隊は特別な政府機関なので、この件に関しては非常に厳しいです」と教えてくれました。息子はかつて『轉法輪』を一度読んだことがあり、『洪吟』の詩を暗唱したこともあります。彼はいつも私の修煉を静かに支持してくれています。息子の仕事に支障をきたさないように、私は一人で故郷に戻りました。故郷に戻った後、私は全身全霊をかけて同修と協力し、真相を伝えて人々を救い済度する活動に取り組みました。
時は瞬く間に過ぎ去り、知らぬ間に数年が経ちました。師父は私を導き、法輪大法を修煉しながら衆生を救い済度の道を一歩一歩進んできました。この十年間、毎日早朝3時に起床し、五つの功法を煉功しています。その後、半日かけて法を学び、法を書き写し、法を暗唱します。そして、残りの半日は真相を伝え、人々を救い済度することに専念し、夜も法を学び、法を書き写し、法を暗唱しています。日常生活で何か問題が起きた時には、常に真・善・忍の基準で自分を律し、後悔のないように努めてきました。今世で師父と共に法輪大法を修煉できることが、私にとって最大の幸せです。