文/中国黒竜江省の大法弟子
【明慧日本2024年10月7日】2002年に、私は法を実証するために北京に行きました。そのことを理由に、1年半の強制労働教養の迫害を受けました。学法が少なく、恐怖心が強かったため、邪悪に妥協してしまい、道を外れてしまいました。戻ってきた後は、面子を気にして同修と会うのを避けましたが、心の中では大法を放棄していませんでした。気持ちは混乱し、落ち着かず、法を学びたいと思いながらも学べませんでした。
慈悲深い師父は私を見捨てられず、何度も同修を通じて私を呼び戻してくださいました。私は後悔と自責の念にさいなまれ、約1年半の時間を無駄にしました。迫害されていた時間を含め、3年も大法から離れていたため、非常に苦しく、後悔や自責、劣等感に悩まされていました。その後、同修の励ましにより、恐怖心を乗り越え、集団学法に参加し、真相資料を配布して人々を救う活動に加わりました。
大法を修煉して以来、私の家族全員が大法の恩恵を受けてきましたが、私はいつも自分がうまく修煉できていないと感じ、プレッシャーを感じていました。他の同修は普段から楽しそうにしているのに、私はいつも重苦しい気持ちで、劣等感や自責の念にさいなまれていました。自信がなく、面子を気にして、何事にも慎重になり、他人を傷つけないように気をつけていました。間違ったことをしてしまうと、心の中でその思いが消えず、心がかき乱されました。これらは全て、自我、利己心、虚栄心、他人に批判されたくない心が原因であり、起こった出来事を重く受け止めすぎることで、これらの悪い物質が形成され、私の人生を支配し、抜け出せなくなっていたのです。同修たちとの間に大きな差を感じ、追いつけないと悲観し、それが修煉に対する妨害となっていました。
最近、同修の交流文章「やましさも執着の一種」を読み、大いに助けられました。文章は「やましさは実は怨恨心の一種であり、この怨恨は自分自身に向けられたもので、自分を責め、自分を憎み、自分を攻撃するものです。これは内に向かって探しているのではなく、強烈な執着の一種です……、やましさはただ自分を責め、自分に不満を抱き、自分を攻撃するものであり、これは一種の執着であり、さらに言えば党文化の一種です。自分を責めることに慣れた人は、他人を責めることにも慣れており、怨恨心が取り除けない原因もここにあります」と述べています。
また、別の交流文章「病業に関する認識」で、同修はこう述べています。「皆さん、考えてみてください。天上にはたくさんの神々がいますが、なぜあなたが下界に下りて来たのでしょうか。師父があなたを選んだのであれば、自分が不適格だと考えること自体が、大法や師父に対する正しい信念が欠けていることを意味します。自分を本当の大法弟子の位置に置いていないのです。自分が適格かどうかは関係なく、あなたには後ろ盾がいます。あなたの存在は個人的なことだけではなく、あなたが大法を実証すること自体が、大法が人間社会に反映されている一面です」、「自分が不適格だと思っているのは、単なる自己認識の問題ではなく、旧勢力があなたの思考や思考方式に対して行っている手配があるのです。もしあなたが自分は不適格だと考えるなら、その思考があなたの能力を制限し、あなたの護法神や周囲の正神の能力もすべて制限されてしまいます。彼らはあなたを助けることができません。なぜなら、彼らがあなたを助けるためには、法理に基づく必要があるからです。あなたの能力や正の要素があなたに作用するためには、あなたの考えに合致しなければなりません。あなたが不適格だと考えるなら、本当に不適格になってしまうのです」
この文章を読んだ後、私はこの自責、後悔、やましさが自分に非常に深刻に現れていることに気づきました。これまでの修煉の中で、自責、後悔、やましさ、そしてその背後にある深い執着が旧勢力に捉えられ、終わりのない妨害を引き起こし、私の正念を失わせ、さらには私の思考を支配し、三つのことをうまく行うことができず、大法を実証して衆生を救うことにも影響を与えていました。
この文を執筆している際にも妨害があり、書き進めることができない時がありました。同修は私を励まし、書かなければならない、邪悪を暴露し、旧勢力の妨害と迫害を解体しなければならないと言ってくれました。
師父はこう説かれました。「形成された観念は人間の一生を阻害し、制御します。人間の観念は往々にして利己的であるか、または更に良くないものなので、思想業力が形成され、人間はこうして業力に制御されてしまいます。人間は主元神に支配されているため、主元神が麻痺して観念に取って代わられたら、その人は無条件に降参してしまったことになり、生命はこれらのものに左右されてしまいます」(『轉法輪(巻二)』「佛性」)
師父はまた明確に説かれました。「皆さんが自責することを私は好きではありません。それは何の役に も立ちません」(『二〇〇三年元宵節での説法』)
師父の法は私に広々とした修煉の道を示し、心の陰りを洗い流し、修煉に対する自信を増し、勇猛精進する勇気を与えてくださいました。同修の交流文章は私の根本的な執着に気づかせ、今後のわずかな時間の中で、もっと法を学び、よく法を学び、内に向かって探し、さまざまな執着と人心を取り除き、もっと多くの衆生を救うこと決意させてくれました。師父の慈悲なる救い済度に感謝します! 同修の皆さんに感謝します!