文/米国の大法弟子
【明慧日本2024年10月14日】私は若い大法弟子です。最近、個人修煉をどのように向上させたのかを、皆さんと共有したいと思います。
一、病業の関と心の悩み
2019年12月の最後の週、地元の神韻が終わった時、神韻の車の警備などを手伝った直後から喉が痒くなり、次第に咳へと発展しました。この病業はほぼ4カ月続きましたが、咳の程度は時々ひどく、時々軽く、全体としてはますます悪化していきました。私は、この病業の程度が自分の修煉の状態と直接関係していることに気づきました。しかし、この関係性に気づいたにも関わらず、私はこの関を乗り越えようとしませんでした。なぜなら、修煉中に抱えている心の悩みがあったからです。この悩みは10年以上も私を悩ませていましたが、この病業の関、つまり師父からの棒喝によって、その悩みを解くことができました。
私は修煉者の家庭に生まれ、両親ともに修煉をしています。私が初めて文字を覚えた時『轉法輪』を読み始めたことを今でも鮮明に覚えています。それぞれの漢字が一つのイメージとして私の心に刻まれ、同じ漢字が別の箇所に出てきても、その漢字が指す人物や概念をすぐに認識できました。こうして私は修煉を始め、米国に移住するまで、両親と共に修煉環境の中で成長しました。
覚えているのは、米国に来る1年くらい前に、初めてゲームに触れたことです。両親は強く反対しましたが、当時の私はゲームを新しいおもちゃのように感じ、とても面白く思いました。現実世界には様々な制限がありますが、コンピューターで作り出された仮想世界では、数字を使って無限に何かを創造できるということに魅力を感じました。しかし、その時は家族と一緒に生活していたので、個人修煉を怠ることはありませんでした。
しかし、小学校に上がると、私の修煉状態は徐々に下がり始め、時間が経つにつれてますます悪化していきました。生活上のプレッシャーのため、両親も以前のように積極的に私の煉功と学法を指導する時間がなくなりました。今になって考えると、当時の両親は私よりももっと厳しい関を乗り越えなければならなかったのです。一方、私は学業や日常生活でうまくいかないことが多く、次第に外の世界の物事に頼るようになり、ゲームや小説、人間関係、恋愛、そして知識や能力の競争など、様々なものに満足感を求めました。しかし、10年間探し続けても、当時は何をするのも苦しいと感じていました。満足感や喜びを感じても苦しく、何かを失なったり、つらい思いをしても苦しかったのです。
しかし、修煉の道を歩む中で、私は常に一つの確信を持っていました。それは、どんな悩みや苦しみにも、修煉という答えがあるということです。修煉をすれば、それらの問題は自然と消えてしまいます。具体的にどのように消えるのかはよくわかりませんが、師父にはそのような力があり、法にはそのような威力があると、私は心から信じていました。なぜなら、私が最初に読んだ本が『轉法輪』だったからです。つまり、大法の根が私の心に深く根ざしていたのです。しかし、私は一つの心の悩みを抱えていました。それは、学法と煉功を、世俗の苦しみから逃れるための手段にしてはいけないという思いです。つまり、私は一人の人間として、幸せになりたいという願望を持ちながらも、大法を私的な幸福追求の道具にしてはいけないと知っていました。それは間違っていると理解していたからです。では、もし世俗の人々が、高収入の仕事や幸せな家庭、豊かな生活を人生の目標とするならば、修煉者はそれらを目標にすべきではないのでしょうか。修煉の目的は何なのでしょうか?
咳がひどくて眠れず、呼吸困難になり、このままでは命が危ないのではないかと思うほどになった時、突然、師父のことが頭に浮かびました。そして「師父に助けを求めたい。苦しいのは嫌だ」という考えが一瞬頭をよぎりました。しかしすぐに、その考えを打ち消しました。なぜなら、大法は私たちが世の中で楽に生き、苦しみから逃れるためのものではないからです。私は人生の答えが「苦」であることに気づき、生きる意味を問い始めました。苦しみのために苦しむなんて、そんなはずがあるでしょうか? その時、神韻のことが頭に浮かび、2016年のニューヨーク法会で師父が「大法弟子」という言葉をしきりに繰り返されていたことを思い出しました。まるで目が覚めたかのように、私は自分自身が「自分自身のため」ではなく「他の人のため」に存在していることに気づきました。そして、師父が人を救うことをお手伝いするために、私はこの肉体を必要としているのだと悟りました。
大体午前5時か6時頃、私は起き上がり、何とか動功を行いました。その間、師父が私の体を浄化してくださり、鼻や口から大量の痰が出ました。煉功を終えると、タオルが痰でいっぱいになっていました。咳は8割から9割改善しました。その後2日間で、4カ月間続いていた体調不良はほぼ完全に解消されました。
二、神韻公演の宣伝に投入する
あっという間に2021年の夏がやってきました。その時、私は持っていた二つの仕事のうちの一つを辞めたばかりでした。ちょうどその時、神韻が帰ってくるという話を聞き、近くの街で人手が足りていないとのことで、車で駆けつけました。その後数カ月間、仕事の時間を減らしつつ、近くの街で人手が足りないところがあれば、車で手伝いに行きました。師父が私に実践の機会を与えてくださったのだと気づきました。その時は、貯金もあり、連邦政府からの補助金もありましたし、大学にも通っておらず、収入も少しありました。つまり、お金も時間も余裕があったので、神韻の広報活動や神韻公演を手伝うべきだと感じたのです。
その数カ月間の神韻シーズン中、私は多くの困難に直面しました。例えば、近くのA市でキッチンの準備を手伝うために数時間車を運転しなければならない4日前、突然発熱して咳が出始め、味覚を失いました。その後、残りの約300キロ以上の道のりを運転している最中、突然寒波が襲来し、道中ずっと雪が降っていました。B市でグッズ販売と警備をするために車を運転しなければならない1週間前、突然咳が出始め、部屋にあった期限切れの咳止め薬を捨てておくべきだったと気づきました。関に直面し、体が寒く、お腹が空き、喉が渇き、疲れ、眠たい中で、神韻の活動を続けなければなりませんでした。C市の劇場で観客が入場する1~2時間前、突然販売システムが故障し、解決できなければ現金取引しかできなくなるという事態に直面しました。このような困難が次々と起こりましたが、最終的にはすべて解決し、結果はすべて良いものになりました。
当時の私の次元では、神韻活動をサポートするにあたって、私の心態は次のようでした。つまり、あらゆる困難は私を妨げ、師父が人を救うことをお手伝いするという私の使命を果たさせないようにしようとしている、と考えました。そこから、一つの矛盾が浮かび上がりましたが、次のように理解しました。私が行っていることは、師父が人を救うことをお手伝いするためのものだと理解していました。ということは、まず第一に、これは師父から求められていることであり、そして師父が按排されたことは必ず成功するはずです。ですから、どんなに大きな障碍が立ちはだかろうとも、私を妨げることはできません。なぜなら、師父が成功させたいと望むことは必ず成就すると私は信じていたからです。
数カ月間の道のりを経て、当時の私の次元では、自分自身は何も所有していないということに気づきました。なぜなら、私はすべてを師父に委ねているからです。私は何も知らないし、持っている知恵もすべて師父から授かったものです。また、私は何もできないし、持っている能力もすべて師父から与えられたものです。そして、私が経験した困難は、私を妨げようとしていたのではなく、次の段階へと進む前に、後天的に身についた「執着」「欲望」「求める心」を取り除くためだったのです。振り返ってみると、すべての魔難や困難は良いことだったと言えます。
三、師父が私のために道を指し示してくださった
2022年6月、神韻シーズンが終了した後、私は自分にとって新たな修煉段階に入ったことを自覚しました。神韻が、大きなプレッシャーの下における修煉者の状態を検証する場であるとすれば、神韻がない期間は、緩やかな状況や安逸な状況における修煉者の状態を検証する場と言えるでしょう。私は、プレッシャーに直面した時にこそ、より一層心を強く保つことができるのかもしれませんが、プレッシャーがない時、一体何を基準に心を強く保てばいいのでしょうか? 例えば、私たちの街での神韻公演が2022年初頭に終了した直後、私は疲労困憊してベッドから起き上がることができず、ただ眠りたい、数カ月間緊張していた頭を休ませたいと思っていました。しかしその後、師父から棒喝を受けました。家に帰ってドアを開けた後、鍵をドアノブにかけたままにしてしまい、両親から注意されたのです。その時、私は師父が、緩んでしまった私の主元神を棒喝しているのだと気づきました。そしてすぐに、気を引き締めて物事を行いました。なぜこのようなことが起こったのか、自問自答しました。そして、これが私の次の修煉の方向性であると気づきました。その当時、師父は私を、まるで10年前に米国に来たばかりの頃の状態に戻したかのように、私を引っ張り上げてくださったのだと感じました。そして、新しい課題を与えられました。その課題の内容は、10年前にも解いたことのある、ゲームや小説、欲望に対する選択でした。ただ、10年前の私は間違った答えを選んでしまったので、師父は私に再度課題を与えられました。この課題を避けて飛び越えることはできませんでした。修煉に漏れが生じてしまうからです。
この課題について考えている間、私の思想業力は非常に強く反応し、正念を発して取り除いてもすぐに再び現れてきました。そこで師父は私に「刈っても刈っても草のように思想業力が生えてくるのは、根が土の中に埋まっているからだ」と悟らせてくださいました。そこで私は、師父が説かれた『精進要旨』の中の「根を掘る」という経文を思い出しました。そしてもう一度「根を掘る」を読み返しました。
読み終えた後、当時の私の次元でも、突然、思想業力の根源がどこにあるのかが分かりました。それは、私が真の意味で大法の上に立っていなかったからです。簡単に言うと、このような感覚でした。「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と声に出して念じている時、いつもどこかに「隔たり」を感じていたのです。私は、まるで大法を傍観しているような状態だったと思います。大法が迫害を受けているのに、私は一体何を考え、何をしていたのでしょうか? 自分の「旧勢力の影響を受けた心の状態」に気づきました。そして、中国の刑務所で大法修煉者を迫害している旧勢力のような、私的で邪悪な状態を思い出しました。旧勢力は、修煉者の正念を試そうとして、修煉者が「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と叫んでいる時に、心の底からそう思えているかどうか、そして刑務所内の修煉者が大法に対してどのような立場から見ているのかを観察していたのです。しかし、ここから別の問題が生まれました。それは、修煉者は旧勢力が按排した道を認めることはできないということです。当時の私の認識では、旧勢力のやり方は非常に邪悪で「真・善・忍」とは程遠いものでした。言い換えれば、旧勢力の道は間違っているのです。
慈悲深い師父から再び教えを受けました。それは、すべてのものが法の中に存在しているということです。私は、自分の修煉と生命の本源的な希望は、宇宙の特性である「真・善・忍」と完全に同化することにあると理解しました。この目標を達成するためには、法を学ぶことが唯一の道であり、師父が説かれたすべての法を繰り返し学ばなければなりません。
師父から悟りを受けた後、私は以前の「課題」に答えを記入し始めました。欲望や執着、習慣が楽しそうに私を誘惑してきても、まるで感じないかのように、それらをすべて放下することができました。それは、師父が説かれた「いかなる心も動じなければ、全ての変動を制することができます!」(『米国中部法会での説法』)というお言葉通りでした。そしてすぐに、師父は私が以前の課題に答え終えたのを見て、新しい課題を与えてくださったように感じました。それは、大法に対する揺るぎない正念で、慈悲をもって真相を伝え、師が人を救うお手伝いをし、大法を実証し、邪悪を排除することです。なぜなら、その時、私たちの地域での2023年の神韻公演の宣伝活動がすぐに始まる予定だったからです。
師父は私に「中共は宗教であると同時に、宇宙の特性である真・善・忍に反する邪教である」ということを気づかせてくださいました。つまり、中共は私の生命のすべてに反対する存在です。大法と同化していく中で、このことをはっきりと認識し、自分自身を正しく位置づけ、中共のあらゆる要素を否定しなければ、大法に完全に同化することはできず、漏れが残ってしまいます。師父は、私の母国語が中国語であるという事実も重要だと教えてくださいました。法を学ぶ以外のことを中国語を使って学び、物事を認識する過程で、特に成長過程においては、中共が意図的に現代語に植え付けた毒素を避けられないほど吸収してしまうからです。それらの言葉には、必ず中共の影が潜んでいます。ですから、法と照らし合わせながら、自分の中から、言い換えれば、深く根付いた党文化の影を見つけ出し、捨て去らなければなりません。
(続く)