文/中国の青年大法弟子
【明彗日本2024年12月1日】明慧ネットの交流文章には、携帯電話で動画、小説、ドラマなどを見ることへの執着が原因で旧勢力に迫害された修煉者の例が少なくありません。年齢も迫害の形式や深刻さも様々です。私の知っている同修にも似たような例があります。
例えば、毎日三つのことを積極的に行っているある高齢の同修が、ドラマにはまった結果、正念を発する際に掌が下を向いてしまう現象が起こり、夢の中で悪い生命が目から体内に入るのを見ました。その後、深刻な病業の様相が現れ、病院に運ばれ、多くの異常が検査で見つかりました。しかし、退院後、この同修はすぐに不正な状態を正し、師父の加持のもとで体は正常に回復しました。
私自身も最近、携帯電話を見た後で体調不良を経験しました。普段は常人のウェブサイトにはほとんどアクセスしませんが、ある期間、自分に対して緩んでしまい、数日間続けて昼寝前に自動で配信されるウェブページを10分ほど見たり、土曜の夜には1時間近く見たりしました。その結果、夜中に突然吐き気を感じ、2、3回吐き、胃腸が空っぽになるまで吐きました。翌日は体が虚弱で食欲もなく、一日中ぼんやりとして苦しい思いをしました。その時、ウェブページに含まれる良くないものが体内に入ったせいだと悟り、それ以降、知識を調べる必要がある場合を除き、携帯電話を一切見なくなりました。
師父は明確にこうおっしゃっています。「いかなる心と執着も、あなたの進歩と向上を妨げ、同時にそれらの旧勢力や邪悪の要素に利用されてしまいます。必ずそうなります」(『二〇一五年米国西部法会での説法』)
執着心を取り除かないと、円満に向かうことができないばかりか、危険でもあります。私たちは携帯電話への執着を断ち切るべきだと分かっていながらも、時には自分をコントロールするのが難しく、断ち切った後も繰り返してしまうことがあります。自分の認識を踏まえて個人的な体験を述べることで、同修の皆さんに少しでも啓発となり、自分自身も同じ過ちを繰り返さないようにしたいと思います。
一、修煉の目的を明確にし、心身を純粋にして真の修煉を行う
私たちの修煉は、良い人になることから始まり、次元を絶えず高め、最終的に覚者になることを目指しています。
師父は「人間はまるで一つの容器のようなもので、何かを入れればそれになるのです。人が目や耳を通して見たり聞いたりしているものは、みな、文芸作品の中の暴力、色情、互いに腹を探って排斥し合うことや現実社会での利益の争い、拝金主義とその他の魔性の現れ、等々です。頭に入れられているものはみなこのようなものであれば、その人の表れがどのようになっていようと、本当の悪い人なのです。人間の行為は考えによって支配されているので、頭の中がこのようなものでいっぱいになっている人は、どのようなことをするのでしょうか? ただ人々は程度の違いこそあれ、みな多かれ少なかれ思想が汚染されているので、現れてくる問題を察知できなくなっています」(『精進要旨』「法の中に溶け込む」)
現在の常人の道徳はすでにかなり低下しており、インターネットにはさまざまな奇聞や逸話が溢れていますが、その多くが堕落した内容です。たとえ私たちが単に外の世界を知りたいだけで、何か悪いことをしようとしているわけではなくても、すでに「本当に悪い人」になってしまっています。「良い人」の基準すら達成していないため、私たちが最終的に目指す「覚者」の境地からはさらに遠ざかってしまいます。
私たちは「身体」という瓶の中にある汚れたものをすべて取り除かなければなりません。一切の後天的な観念を捨て、生まれながらの純粋さだけを残し、完全に大法に同化して初めて、神佛の絶対的に純粋で神聖な境地に到達することができます。不純な思想物質については、早急に外に出す一方で、新たに入れないようにしなければなりません。携帯電話を見るという行為は、目や耳を通じて身体に汚れたものを注ぎ込む行為であり、修煉の目標に反するものです。一方で捨て、一方で入れ続ける限り、それは終わりがありません。
これまでの修煉の年月を振り返り、自分自身に問いかけてみましょう。何のために修煉をしているのか? 修煉の目的を明確にしたうえで、何が「真の修煉」と言えるのかをもう一度考えてみましょう。
二、更なる精進と執着の排除
どのように散在する時間を管理し活用するかも、精進しているかどうかを測る基準の一つです。私たちの時間は、師父が大きな代償を払って与えてくださったものであり、可能な限り自己の修煉と衆生救済のために使うべきです。携帯電話を見るのは、心身が不安定で、頭の中で考えることがなく、気軽に時間を過ごしたいという状況で行われるものです。しかし、精進している同修を見ると、皆が明確な時間の計画を持っています。例えば、いつ煉功をするのか、学法をするのか、正念を発するのか、真相を伝えるのか、すべてしっかりと充実したスケジュールを立てています。中には、食事を簡素に済ませ、家事を同時にいくつもこなす同修もおり、時間が非常にタイトで携帯電話を見る暇などありません。執着も生まれません。それに比べて、私たちは自分に対して甘すぎるのではないでしょうか?
学生や会社員のように、毎日規則的な生活をしている人にとって、空き時間は大体固定されています。その空き時間をリストアップし、それぞれに内容を割り当てることで、携帯電話を見るのを避けながら、自分をより早く向上させることができます。例えば、通勤やバス待ちの時間に約1時間ほど取れるなら、静かに法を暗記することができます。心に法があれば、常に自分を正し、言動を正すことができます。また、食事中や仕事・学習で疲れた休憩時に正念を発することもできます。寝る前には、一日の言動を振り返り、内に向かってどんな執着が残っているかを探してみましょう。こうして計算すると、毎日4時間以上の時間を有効活用することが可能になり、長期間積み重ねるとかなりの成果となります。家にいるときは、携帯電話をベランダや他の少し遠い場所に置くことで、携帯電話の監視リスクを減らしつつ、携帯への執着を取り除く助けになります。一度習慣になれば、それは簡単にできるようになります。その時には、携帯電話のことを思い出すことさえなくなり、たまに着信音が鳴っても邪魔に感じるほどになります。携帯電話を見ること自体が余計な行為に思えるでしょう。
真の自我の意志が重要です。執着を断つ決心をした瞬間、師父がその物質を一部取り除いてくださり、想像以上に簡単に実現できます。もし心の中にまだ執着を残し、それを惜しむ気持ちがあるなら、それは真の自分の思考ではなく、「執着」が発したものであり、それが死にたくないためにあなたの脳を支配しようとしているのです。私たちは三界を超えようとしているのですから、三界内で形成されたすべての執着を断ち切らなければなりません。堂々たる大法弟子が、それらに左右されるはずがありません!
私たち全員が法理を明確に理解し、心身を守り、真の修煉を行い、世俗の束縛を手放し、すべての執着を修め尽くし、天国の故郷に戻る道を勇猛に進むことができますように。
個人的な理解であり、不適切な点があれば、どうか慈悲をもってご指摘ください。
師父に感謝します。同修に感謝します。