安全に気を配ることは自我を手放す過程でもある
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2024年12月7日】今日に至るまで、明らかに安全性の問題に注意を払っていない学習者がまだ見受けられます。この点について、私の見解の一部を共有したいと思います。不適切な点があれば、ご指摘してください。

 10年くらい前、私はモニターというものを大まかに知っています。固定電話から電話線を抜く必要があると聞いていましたが、携帯電話がオフになっている限り、モニターされることはできないと誤解していました。

 ある時、私が緊急事態に遭遇し、数年間連絡を取っていなかった同修に会いに行かなければならなかったのですが、会ってからすぐ、その同修は私に携帯電話を持ってきたかどうか尋ね、来る前からずっと電源を切っていたと私が言いました。バッテリーを外すように言われたので、少し不快に思いましたが、言う通りにしました。その後、セキュリティ問題についての理解が深まり、また、接していた警察官から監視がいかに簡単かを教えてもらい、自分の携帯電話が悪勢力によって遠隔操作されていた経験もしたため、セキュリティを軽視することはなくなりました。携帯電話の安全性に関する師父の説法を学んだ後、私は安全問題を理性的かつ真剣に扱うことができ、何をすべきかが分かりました。

 今振り返ると、当時私は携帯電話を持ち同修に会いに行きましたが、これは明らかな安全上の問題でした。理由は、当時の私は事情を知らなかったのですが、しかし知ってから注意すべきときに、心の中で嫌な気持ちが生まれました。その「嫌な気持ち」をよく見ると、携帯電話のバッテリーを外すのが面倒だということと、「電源を切れば大丈夫」という間違った観念から、余計なお世話、やる必要がないと思ってしまいました。その結果、そこまでやらせる同修の要求に抵抗と反感を感じました。その背後にある本当の理由は、「自分が安全だと思うものは安全であり、安全ではないと思うものは危険である」ということで、つまり自分の認識に固執することでした。

 当時、安全に注意を払わなかった周囲の同修の行動を見てみましょう。たとえば、ある年配同修は携帯電話のモニターに注意を払わず、迫害を受けてから、携帯電話の監視が不可能な場合でも警戒を怠りません。しかし、環境が緩くなると、再び携帯電話の安全性に注意を払わなくなり、携帯電話を持つ中でデリケートな話でさえ、注意を払わなくなりました。またその中には、電話で敏感な内容について話したものの、悪者はそれを別のものとして解釈するだろうと主張した人もいました。あるいは、外で人を救うときの行動や仕草が、迫害に関わっている人はもちろんのこと、普通の人にとっても異常であり、疑惑を招くような行為に過ぎず、しかし同修自身はそうは思っていません。

 その背景には、「私がそう思っているからそういうこと、やるべきと思うことはやる、そう思わないことはやらない」という考えもあります。法と照らし合わせると、明らかなセキュリティ問題に注意を払わない主な理由が2つあることがわかりました。一つは「感情」によるもので、物事を行うのは人間の感情に基づいており、これをしたい、あれはしたくない、こういうふうにしたい、そうしたくない、と様々な執着が感情から生まれます。これらの人心や執着に突き動かされ物事を行い、このように、安全問題を法の基準に判断するのではなく、感情や執着によって判断し、決定してしまうのです。もう一つは、自分に固執し、自己中心的であり、自分の理解や認識を基準にすることです。そうしても安全上問題がないと私が考える限り、安全上の問題はないのです。その結果、問題に対処する際、現実の状況に基づき、合理的に行動するのではなく、自分の知っていることや想像に基づいて行動することになります。例えば、携帯電話やWeChat(中共が開発したアプリ)が悪者によって簡単に監視されることを知らない場合、またはそのようなことが可能であると信じない場合、同修との連絡を携帯電話や携帯アプリの使用にセキュリティ上の問題はないと判断します。あえてそうするのです。また挙げられることは、自身が使う「隠語」をきっと悪にまったく理解できないと考え、悪がどのように自分の行動を理解するかを想像するなど。自分たちの「隠語」がすでに悪人によって把握され、聞くとすぐに意味を理解され、それらの行動を見て、すぐに真相資料を交換していると分かり、それなのに、依然として自らの言動を悪者に知られていない、自分たちは安全だと考えています。

 この2つの原因により、人々は明らかな安全上の問題に直面しても、それは安全上の問題ではないと考え、注意を払わないようになります。このとき、背後にもある本当の理由を隠すために、「正念が強い」という表現がよく使われます。しかし、正念は大法に基づき、師父の言葉を聞かず、法に従って行動しないなら、それはもうはや正念ではないでしょう。これは童話「皇帝の新しい服」を思い出させます。物語の皇帝は華麗な新しい服を着て、豪華さと威厳を示していると思い込んでいます。しかし、周囲の目には違ったように映っています。実際の状況は皇帝が感じるものと正反対でした。実際、学習者が明らかな安全問題に注意を払っていない時、本人は恐怖心がなく、強い正念を持っていると思うかもしれませんが、他の大法弟子が法で見ると、あなたの不合理、法に基づいていないことがはっきりとわかります。迫害に関与している人たちでさえ、それを見て陰で笑っています。このように、大法の弟子は、安全問題に関して自分の想像に頼ってはならないし、自分の想像は実際の状況とは違います。「自我」の認識は悪に対して何の影響も与えません。法に従って理性的に対処することによってのみ、自分と同修の安全を真に保障し、自分自身、同修、そしてすべての衆生に対して、真に責任を持つことができます。

 また、ここ数年安全に気を配る中で、その問題は表面的な行動のように見えても、実は修煉にも関係していることに気づきました。例えば、携帯電話のバッテリーを取り外す、また監視を防ぐために携帯を別の場所に置くこと、それは携帯を単に無視するよりもはるかに面倒であることに間違いありません。その背後には、安逸心、面倒がる心、そして物事を適当に行うという党文化が潜んでいます。または、携帯電話を持たずに資料制作拠点に行くと、家族に理解されないか心配するなど、その背景にはさまざまな人情や人間の道理などがあります。

 言い換えれば、安全問題に直面したとき、その背後にある人心が反映されます。このとき、人心に従うか、それとも人心を放棄し、師父の言葉を聞くのか? 自分の認識に固執するか、それとも「自我」を放棄し、法で理性的に認識するのか、これらすべては自分を修める過程です。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/11/14/485007.html
 
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