自分の心より魔が生じることについて
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年12月20日】『轉法輪』の「自分の心より魔が生じること」の一節を暗唱していた時、ある痛ましい出来事を思い出しました。この体験を皆さんと共有し、交流したいと思います。

 数年前、私たちの地域の同修が病業のような状態に陥りました。当時、私はその同修とそれほど親しくありませんでしたし、彼女を訪れることも考えていませんでした。しかし、ある同修から、彼女を訪ねるよう勧められました。その意図は、彼女と交流することで何か助けになれるかもしれないということでした。私はその言葉を受けて彼女を訪ねることにしました。

 彼女と会って交流を始めた際、彼女は「頭の上で何かがずっと回転しているのを感じる。それは法輪が回っていると思う」と言いました。この言葉を聞いた時、私は彼女の言うことに疑問を抱きました。そして、さらに驚いたのは、彼女が明らかに法に沿わない重大な問題を抱えていることでした。それは、何をするにも誰かに「問いかける」という行動をしていたのです。些細なことから、毎日のお香を焚く時の行為、さらには法を実証することや衆生を救う活動に至るまで、すべてにおいて「問いかける」のです。

 「あなたは誰に問いかけているの?」と尋ねると、彼女は「師父です」と答えました。さらに、「それが師父からの答えだと思っていますか?」と聞くと、彼女は「そうです。問いかけるたびに答えが返ってきます」と言いました。そこで私は「それは師父ではないと思います。師父がそんな具体的な質問に答えられることはありません」と断言しました。心の中で、彼女が病業に陥った原因はこれにあるのではないかと考えました。これは明らかに法にそぐわず、邪霊を引き寄せる可能性が高いと思いました。

 この問題の深刻さを感じ、私はさらに「本当に声が聞こえたの? それとも何となく情報を感じ取ったの?」と尋ねると、彼女は「声を聞きました」と答えました。そこで私は、「もうその問いかけはやめたほうがいい。師父がそんな形で答えられることは絶対にない」と伝えました。しかし、彼女は私の言葉を信じようとせず、それが師父だと固く信じていました。

 私は「では、ひとつ試してみましょう。明日、お香を焚く時にこう問いかけてください。『あなたは李洪志師父ですか? もし李洪志師父でないのなら、どうかここを去ってください。私は李洪志師父の後についていきますと伝えれば、それが師父でなければ必ず去るでしょう」と伝えました。彼女はその提案に同意し、試してみると約束しました。

 数日後、再びその同修を訪ねると、彼女は「あなたの言った通りにしたら、あの声が聞こえなくなり、頭の上も回らなくなりました」と話しました。私は「それは本当に良かった! あれが師父ではないことが証明されたし、離れてくれて安心しました」と答えました。しかし、彼女は続けて「でも、私はもうあれに慣れてしまっていて、いなくなるのが寂しいんです。私はまだあれが欲しいと思っています」と言ったのです。

 この言葉を聞いて、私は驚きを隠せませんでした。どうしてこんなにも分からず屋なのかと。本来ならば、修煉を長く続けている彼女が、こんなにも明らかに法に反する問題を見極められないと思いませんでした。心の中では彼女を案じながらも、焦りの気持ちが募りました。

 私は彼女に「あれが師父でないことは明らかです。それが何者かも分からないのに、どうしてまだ欲しいと思うのですか? あなたは師父と共に歩みたくないのですか? そんな生命に自分を任せるなんて、あまりにも危険です!」と言いました。しかし、彼女は私の話をまったく聞き入れようとしません。

 私はさらに「あなたのこの心は『求める』心です。師父は私たちにそうした『功能』を与えられません。けれど、あなたの求める心が他の生命を引き寄せてしまったのです。その生命は、師父が答えないことを知っていて、あなたを満足させるためにやってきます。あなたがそれを欲しがる限り、それはあなたを支配しようとします。それがどれほど危険なことか分かりますか?」と説明しました。それでも彼女は自分の執着を手放そうとせず、固執し続けました。

 私はもうどう話せば伝わるのか分からなくなりました。その時、ふと「ここに自分の修めるべき心が隠れているのでは」と気づきました。私は議論にのめり込みやすい性格で、「自分が正しい」という心が強いのです。これは私自身の争いの心を取り除くための試練なのだと考えました。

 その後、再び彼女に会った時、彼女は嬉しそうにこう話しました。「また声が聞こえるようになりました。私が尋ねたことにまた答えてくれるし、頭の上も回るようになりました」その言葉に私は言葉を失い、深い悲しみと無力感に襲われました。それだけでなく、彼女は「私だけではなく、他にも同じような現象を経験している同修がいます」と言い、具体的な名前を挙げました。そして、まるで「これだけ多くの人が同じことを経験しているなら、それが悪いはずがない」と言わんばかりでした。彼女は完全にこの問題について法に基づいて考えようとせず、私は何も言い返すことができませんでした。

 師父は『轉法輪』の中で、「功能を求めたり、小手先の技などに執着したり、甚だしきに至っては他の空間から聞こえてくるものにさえ執着し、それを希求したりしています。こういう人こそ最も自分自身の心から魔が生じやすく、最も堕ちやすいのです。どんなに高く修煉した人でも、このことが起きると、とことんまで堕ち、完全に駄目になってしまいます。ですから、これはきわめて重大な問題です」と説かれました。

 この同修は、病業が現れる前も毎日法を学び、煉功し、衆生を救う活動にも積極的に取り組んでいました。表面的には「三つのこと」をしっかり行い、全体の調和にも熱心に協力しているように見えました。しかし、修煉は非常に厳粛なものであり、「誰についていくのか」という根本的な問題が正されていない状態では、師父と共に修煉を全うすることはできないのです。人を救う行いがいくら立派でも、その人だけに特別な基準が適用されるわけではありません。

 その後、彼女が亡くなったという知らせを聞きました。本当に悲しく、残念でなりません。そして、彼女がこの難関を乗り越えられるよう助けられなかった自分を思い、師父の苦心を無駄にしてしまったように感じ、心が痛みました。正法も終盤に差し掛かっている中で、彼女と同じ問題を抱えている他の同修たちが、この問題を正すことができたかどうか分かりません。直接会って話すことができないため、この出来事を明慧ネットを通じて書き出し、同修たちに参考として共有することにしました。

 この文章を書き終えた後、私は再び深い思索にふけりました。この出来事から何年も経っていますが、師父が今になってこの記憶を私に思い出させたのは、一体どんな悟りを得るべきなのだろうかと。静かに心を落ち着け、自分自身を振り返ってみると、私自身にも「求める心」や「功能を求める心」、あるいは「二つの道に足を置くような考え」があるのではないか、と考えました。修煉者に起こるどんな出来事も偶然ではないのです。このことを思うにつれ、自分にも「自分の心より魔が生じる」問題がないか、心の奥深くを掘り下げていきました。

 その時、ある同修にかつて言われた「家に帰って『自分の心より魔が生じること』の節をよく読んでみなさい」という言葉を思い出しました。その言葉を聞いた当時、私は少なからず衝撃を受けたのを覚えています。「私に自分の心より魔が生じる問題があるのですか?」と尋ねると、彼は「私は分からないけど、自分で読んで確認してみてください」と答えました。その同修の率直さと、同修を思いやる純粋な心にとても感謝し、敬意を抱きました。その時は、自分にどこに問題があるのか見つけられませんでしたが、今考えれば、その同修はきっと私に何か問題があると感じ取っていたのだと思います。

 これらのことを考えながら、私は自分自身をじっくりと見つめ直しました。その結果、自分が抱えている問題に驚かされました。以前から、自分には「顕示心理」があることを自覚しており、それを完全に取り除いていないと感じていました。この心の裏には何が潜んでいるのかを深く掘り下げ、根本から取り除きたいと強く思いました。そして、この顕示心理は、まさに「自分を誇示すること」だと気づきました。つまり、自分が優れている、他人よりも立派であると感じ、「自分の修煉はこんなに素晴らしい」ということを他人に見せたい、そんな思いです。もし誇示するものがなければ、見せびらかすこともありません。これこそ「自分の心より魔が生じること」ではないでしょうか?

 さらに、この心と関連する「人心」も見えてきました。自己中心的な思い、他者を見下す態度、自分を高みに置き、他人を表面的に判断して「誰々は修煉が進んでいない」などと感じることは、すべて、「自分は正しい、自分は優れている」という考えに基づいています。このような傾向を持ち続け、修煉で取り除かないままでいると、最終的には邪魔や干渉を引き寄せることになるでしょう。

 顕示心理を取り除けないことで、私はよく自分の修煉での悟りや体験を多くの人の前で話したり、持論を長々と語ることがありました。しかし、旧勢力はこうした行為の中に顕示心理が混じっていることをはっきりと見抜き、その隙を突いて、この執着をさらに強めようとします。その結果、自分では気づかないうちに、法にそぐわない行動を取るようになることもあります。例えば、大勢の前で不用意に自分の考えや法に対する悟りを語りすぎてしまうことです。こうしたことは、大法弟子として慎重に対処すべき問題です。師父の慈悲深い導きのおかげで、この重大な問題に気づくことができました。

 これらの人心を見つけた後、座禅をして自分を清めてみると、なんと心地よく、穏やかな感覚でしょう! その時、内面の深いところから「これこそ本当の私だ!」という思いが湧き上がりました。この感覚が真我であると確信し、私はその本当の私を保ち、それが肉体を支配するよう心がけました。

 この交流文を書く過程自体が、修煉と向上のプロセスでもありました。文章を何度も修正する中で、一つひとつの言葉が法に沿っているかどうかを吟味することは、まさに「内に向けて探す」行為そのものでした。

 師父の慈悲深い救いに心から感謝いたします。また、これまで私に善意の指摘をしてくれた同修にも感謝します。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/12/12/486019.html
 
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