師と法を信じることが基本である
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2025年4月26日】私の母は30年近く法輪大法を修煉しています。いつも精進しており、法を学ぶことにとても熱心です。しかし、母は教育レベルが低く、年齢も高いため、多くの問題を悟ることができません。以前、母が病業の関を乗り越える際、いつも共に法を学び、正念を発していました。母が理解できないことがあれば、私は自分の次元で体験したことを母に説明すると、すぐに理解してくれました。これは母が学法をたくさんしたおかげであり、私は法理を用いて行動と照らし合わせ、法と現実生活を結び付けて説明すると、母はすぐに自分の問題箇所をみつけ、病業状態も早く良くなります。

 しかし今回は、いつもと違います。母の病業状態が非常に重いことは知っていましたが、ここまで深刻とは思っていませんでした。飛行機に乗る前、家から電話があり、母が突然昏睡状態に陥り、病院に緊急搬送されました。医師に呼吸不全と診断され、人工呼吸器を装着していると伝えられました。私は飛行機に乗る間、ずっと発正念をし、地元の多くの同修も病院に行き、近距離で正念を発していました。4時間後、母親は目を覚まし、集中治療室に送られました。病院の家族に与える面会時間は毎日10分でした。私は母と短い面会時間で、ずっと母に法の暗唱を聞かせました。法を暗唱した後、母に暗唱内容を知っているかと尋ねると、母はすべて知っていました。

 すると医療スタッフが私の様子に気づき、面会中ずっとそばに立つようにしました。私は怖くなり、暗唱をしませんでした。家に帰ったあとずっと考えました。「これはいけない、誰かがそばに立っていても、法の暗唱をやめてはいけないのです。恐怖心、恐れる心を取り除かないと、面会の10分間はとても貴重なので、邪悪に騙されてはいけないのです。恐怖心のせいで、大切な人を救う時間を失ってはいけません」

 次に面会に行ったとき、医療スタッフは私が母に法を暗唱するのを見ていました。他の患者の家族はどれだけ長く面会しても大丈夫なのに、私が面会に行くと10分で追い出されてしまいます。7日目になって突然悟りました。これは旧勢力が私たちを会わせまいとしているのです。私は笑いました。「旧勢力は私たちの表面を引き離すことができても、私たちの最もミクロな部分を引き離すことは永遠にできないのです」。母が集中治療室中で法を学べないのなら、私は外で暗唱します。毎回法を暗唱するとき、一念の中で、母の神の一面を呼び起こし、一緒に法を暗唱するのです。私は主に『論語』と『道法』を暗唱し、何度も繰り返し暗唱しました。

 私は法を暗唱しながら、絶えずに内に向けて良くない所を探し、なぜ私が帰ってくるのが遅れてしまい、邪悪に付け入る隙を与えてしまったのか、その原因を探しました。自分の中で、怠惰の心や利己心、責任を負いたくない心、家にいるのが心地よく、楽を求めるなど多くの人心を見つけました。母が過去に病業状態になったとき、私は毎回天目でそれが見え、または夢の中で啓示を受けました。しかし今回は、そういった現象は何も現れず、家族が母の状態が良くないと言っても、私はあまり気に留めず、正念を発するのも遅れてしまい、法を師とする姿勢も貫けませんでした。

 医者に母の心臓が良くないと言われ、これは心性を高めなければならないと悟りました。医者はさらに、母の体内に排出できない悪い気があるとも言いました。私はあれこれ考えた末、それは怨恨心によるものだと気づきました。母は怨恨心がとても強いのです。何か問題が起こると、まず誰の責任かを探し、その責任を他人に押しつけます。そして、あの人が悪い、この人が悪いと恨み、決して自分を省みようとはしません。すべてのことについて、他人が自分の思い通りにならなかったことを恨んでいるのです。時間が経つと、多くの怨恨心が積もっていきました。ここまで考え、ハッと気づき、私も同じではないかと思いました。母が病業の状態を現したとき、私は同修である家族が責任を果たしていないことを恨みました。常人の家族が母に法を学ばせないことや、母の学法環境を壊してしまうことで、こうした問題が起きたのだと恨んでいました。このとき私は、自分の体の中に、濃い怨みの気からできた業力の塊があるのを見えました。最近起こったすべてのことは、自分が向上するためのものであり、自分が法を全面的に理解できない原因となっていた執着を手放させるためだったと私は悟りました。母はそこに気づけず、私自身も同じところで間違っていたのです。

 師父は経文『時間との対話』の中でこう説かれています。「彼らの中には、彼ら自身が良いと思う法の一面を求めに来た人がいますが、かえって彼ら自身は、法のすべてを認識できなくしている他の一面を放下できずにいます」。私はこの法の一文を何度も何度も暗唱し続けました。すると、次第にその業力の塊が消えていったのです。長年にわたり学法してきましたが、この経文は何度も繰り返し暗唱したにもかかわらず、終始この部分の法を理解することができませんでした。でも今回、ようやく悟り、理解できたのです。自分の良いと思う面に合う法ばかりを探すのは、実は法に守ってもらいたいという執着であり、その良いと思う背後に、どんな執着が隠れているのかを深く掘り下げることではありません。自分の根本的な執着を手放してこそこそ、初めて真に全面的に法に溶け込むことができるのです。執着を見つけた後、母の体内の廃気が排出され、心臓の検査数値も安定しました。修煉において内に向け探すことは、本当に法の宝なのです。

 この期間中、私はさまざまな方面からの妨害にも直面しました。常人からのものもあれば、同修からのもありました。常人からの妨害は比較的分かりやすく、彼らが何を言っても私は聞き流していました。ICUの前は昼間とても騒がしく、私は静かな夜に徹夜で付き添うようにしていました。最初のうちはまだよかったのですが、あとになってこのICUではよく人が亡くなる場所だと知りました。夜10時を過ぎると、ICUの前には私1人だけになります。ときには身の毛もよだつような感覚に襲われますが、私はひたすら恐怖心や怖れの心を克服し続けました。法を暗唱するとき、別空間の邪悪も妨害しに来るのです。かつて私は、『論語』を1回暗唱するのに1時間かかったことがありました。また、途中で眠ってしまい、1回通して暗唱するのに2~3時間かかったこともありました。どんなに妨害されようとも、私はただひたすら何度でも繰り返し法を暗唱し続けました。同修である家族は最後に「もう諦めよう、常人の言うとおりにしよう。彼らの言っていることにも一理あるよ」と私を説得しようとしました。私は「ダメです。大法弟子の一念は乾坤を定めるのです。誰が何を言おうと、それは通用しません。絶対にあきらめません」と言いました。

 地元の同修も、ずっと正念を送ってくれました。ある同修がこう言いました。「病業の関を乗り越えるために、正念を送って助けることはできるが、大事なのは本人の正念が十分であることです」。私はそれを聞いて、何も言いませんでした。人はそれぞれに悟性があると思ったのです。当時、母はICUで人工呼吸器をつけられ、話すこともできず、自分の意思を表すことができませんでした。もし本人に正念があるなら、ここまで邪悪に迫害されることはなかったはずです。母が迫害に遭い、彼女にまだ一息でも残っているのなら、それは師父がまだ見守ってくださっている証です。だからこそ、迫害が止まらない限り、私たちの正念も決して止めてはならないのです。私は正念を送り続けます。母を見放すわけにはいきません。母は師父が法を正すことに付いて長年修煉してきた老弟子であり、私自身も長年修煉し、この道の厳しさをよく知っているからこそ、修煉の縁を大事にしたいと思います。

 母が入院して10日目のことでした。私は、師父が空から私に一面の金色の光を降り注いでくださるのを見ました。私はすぐに分かりました。これは師父が私を励ましてくださっています。11日目の夜、私が病院へ向かおうとしたとき、外は激しい嵐に見舞われていました。でも、たとえ外が刃のような雨でも、私の行く手を止めることなどできないと思いました。12日目の夜、私は『論語』を暗唱している最中でした。すると突然、母の神の一面が目の前に立ち現れ、「私は、法を正す時期の大法弟子として、揺るぎなく修煉していきます」と、こう言ったのです。13日目、病院から母はもう人工呼吸器を外しても大丈夫だと告げられました。母はICUを出ることができ、危機を脱したのです。

 この期間は本当に危機の連続でした。振り返ってみると、私が飛行機で戻る前の晩に、ある夢を見たのを思い出します。夢の中、私はとても険しい崖のふちまで駆けて行きました。周りのすべての人が、そこから先は登れないと私に告げました。そのとき、私の心中にはただ一つの念しかありませんでした。「師父がやると言われたので、必ずできる」。私は一切ためらうことなく、崖を登っていったのです。山頂に近づいたそのとき、師父が大きな両手で私を引き上げてくださったのです。母を救う過程は、一見すると不可能に思えるものでした。しかし、師父と法を信じる正念の力で、私はそれを乗り越えることができたのです。この一連の過程は、本当に心を揺さぶられるような出来事でした。実を言えば、当時の私は内心とても不安でした。でも、心にはただ一つの念しかなかったのです。師父がやってよいとおっしゃることは、必ず成し遂げられると。

 これまで歩んできた修煉の道を振り返ると、人生の大きな岐路に立つたびに、私を導き、支えてくださったのは、師父と法を信じる一念でした。当初北京に行って法を実証したときや、真相を伝え始めたとき、『九評』を配ったとき、多くの同修が理解してくれませんでした。皆、口々に「そんなこと、本当にできるの?」と言われましたが、「師父がやるとおっしゃったことは、必ずできます。ためらってはいけません」と私は答えました。自分が関を乗り越える時、本当に苦しくてつらかったです。でもそんな時、心中で自分に言い聞かせました。「師父は私を救おうとしてくださっている。私に諦める資格なんてない。絶対に乗り越えられる」。毎回、師父と法を信じる心だけを頼りにして、関を乗り越えてきました。師父が私たちにさせようとしていることは、表面上はとても難しく見えても、実はすでに別の空間ですべて準備されていて、あとは私たちが一歩踏み出すのを待っているだけなのです。物事を行う過程そのものが、師父の要望を円満に実現していくことであり、同時にそれは、私たち自身を成就しているのだと私は悟りました。

 母が今回の病業の関を乗り越えたことを通して、同修である家族が私に「まさか、私たちの間にこれほどの差があるとは思わなかった」と言いました。「私は別にすごいことをしたわけじゃない。ただ、師父と法を信じる心が、あなたたちよりほんの少し強かっただけです」と返答しました。私たちの智慧、能力、さらには肝心なときの考えまでも、大法弟子のすべてが師父から与えられたものだと悟りました。弟子として、まず根本的に守るべきことは、師父と法を信じるということなのです。

 この文章が完成できたのは、終始、師父が智慧を与えてくださったからです。法の引用もすべて師父のご導きによるもので、自然に筆が進みました。師父に心から感謝いたします。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/4/11/492218.html
 
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