【明慧日本2025年2月20日】10年以上前、私は病気の関を経験しました。まだ完全に回復しておらず、身体が虚弱だった時、ある同修が私を尋ねて来ました。同修の姉が脳出血の仮象が現れ、私の助けが必要だと言われました。当時、私たちはまだ未熟だったため、周りの同修は、もし私が病業中の同修を助けに行けば、大きな干渉を受け、身体の魔難が更に増すだろうと考えていました。また、同修の家に行くには電動バイクの充電が必要ですが、充電器がなぜか見つからなくなりました。このような様々な表面的な状況から、私は病業の同修に会いに行くべきではないと思いました。しかし病業の中にいる同修がどれほど助けを必要としているかはすごく分かっていました。それでも自分を守ろうとする私心が私を阻み、決心がつきませんでした。その夜、同修から電話があり、同修の姉が非常に苦しんでおり、無力感を抱いていると聞きました。
当時、同修の無力感という言葉を聞いた私は、心の中で「もう覚悟を決めた」という念が湧きあがりました。(この念は完全に法に基づいたものではなかった)絶対に同修を無力な状態のままにさせず、旧勢力が好き放題に迫害するのを許すわけにはいかないと思いました。私は翌日、同修の家に行くことを決意しました。その一念のおかげでその夜、私は夢を見ました。夢の中で私は体内から沢山の細長いものを引き出していました。師父が私は「人のために考える」その一念を見て下さり、私の体を浄化し、体内から多くの廃物を排出して下さったのだと分かりました。翌日朝3時過ぎ、私は自然に目が覚め、頭が非常に冴えた状態になっていました。それまで朝の煉功は私にとってとても辛いことでした。このことを通して、私は真剣に修め、自分を放下し、初めて法の基準に達することができ、本体と心性の向上と昇華が実現するのだと悟りました。
2024年、私は3回「人のために考える」ということを経験しました。その中の一つは、常人の夫が植木鉢を運んでいる時のことです。私は「ゆっくり運んで、急がなくていいから無理しないでね」と彼に言いました。一見すると普通の言葉ですが、心の中に「人のために考える」という一念が湧きあがり、自分自身も震撼し、これが「人のために考える」ことなんだと感じ、その感覚は言葉では表現できないほど、非常に尊いものであり、厳粛なものでした。修煉してから20年経ち、初めて「人のために考える」という状態がどんなものかを感じとることが出来ました。常人の夫も驚いた様子でした。彼はきっと大法弟子の慈悲や善の念を感じ、感動したのだと思います。
私は、これまでずっと自分はあまり精進しておらず、周りの同修と比べると大きな差があると感じ、劣等感を抱いていました。慈悲なる師父がこのような方式で私を啓示させ、私を励まし、奮い立たせてくださいました。自我を忘れ、人のために考え、法の中に溶け込む幸福感を体験させていただきました。そして精進して修煉する自信を再び取り戻すことが出来ました。これは私が修煉中に感じたことです。
師父の慈悲なる済度に感謝いたします、これから修煉の中で精進し、三つのことをしっかり行い、師父の御恩に報いたいと思います。