『説文解字』から見る漢字の起源(三)
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文/覓真

 【明慧日本2025年1月1日】(前文に続く)

 (四)漢字における『天人合一』

 『天人感応』『天人合一』は中国の伝統文化の重要な特徴の一つです。天は高くそびえていますが、常に人間界と結びついています——「天は人を照らし、鏡と変わらない」「善を行えば天地はそれを知り、悪を行えば天地もまたそれを知る」。人間界の善悪は、天象を通じて人々に警告を与えます。したがって、古くから「天道を観て、人道に応ず」とされ、天に徳を合わせるべきだという考えがありました。『易経』には「天地の徳に合い、日月の明に合い、四季の順番に合う」と述べられています。

 『示:天は象を垂れ、吉凶を示し、人に知らせる。二(これは古代の「上」)に従い、三つの垂れるもの、すなわち日、月、星である。天文を観察し、時の変化を知り、神事を示す』。

 『説文解字』では「示」について、天が象を垂れ、吉凶を示すことを説明しています。「示」の上部にある「二」は、古代の「上」の形であり、天を象徴しています。下の「小」は「三垂」を表し、日、月、星が天から人々に垂れて示されることを表しています。日食、月食、星象の変化、干ばつ、洪水が発生すると、古代の帝王は天象の異変を見て、それが自らの統治が不十分であることを天が警告していると考え、罪己詔を発し、天下に恩赦を行って神明を敬うことを示しました。

 『説文・示部』には60の文字があり、それらは神、祭祀、禍福、礼制など神に関連する内容を示しています。たとえば、礼、福、祥、禍、神、祭、祝、社、祖などはすべて「示」から派生した文字です。

 人々はどのようにして天の加護を得るのでしょうか?

 『礼(繁体字は“禮”)は履とも呼ばれる。神に仕え、福を得るためのものである。示と豊から成る。』また『豊は、礼を行うための器であり、豆の象形である』とあります。

 「豊」は祭祀に用いる礼器であり、礼器に豊かな収穫物や生贄を盛り、神に敬虔に奉れば、神の加護が得られるとされます。この礼器や儀式は、神への供物として始まり、次第に人々の日常生活における礼儀作法や儀礼へと広がっていきました。

 古人は「天の道を観て、それに従って行動せよ」と言います。この言葉は、天命を理解し、心身を統一して実践することを意味しています。数千年にわたり、天を敬い、神を信じ、祭祀を行う習慣が形作られてきました。『礼記・中庸』には「郊社の礼は、上帝に仕えるためのものである」と書かれています。郊社の礼は天地を祭る儀式であり、冬に天を祭ることを「郊」、夏に地を祭ることを「社」と呼び、これらを合わせて「郊社」と呼んでいます。

 中国の伝統的な祭日もすべて祭祀から発展したものです。『礼記・月令』には、天子が元日に天を祭る大典を行い、「豊作祈願」や農神后稷を祀る行事も行ったことが記されています。立春の日には、天子が三公や九卿、諸侯、大夫など役人を率いて、東の郊外で春を迎える儀式を行いました。これは天地の育みに感謝し、風調雨順を祈るためのものでした。このようにして人と神の関係が築かれ、神の加護を得ることができました。神聖な祭祀の中で、人々は自分自身の存在が天地と密接に関係していることを感じたのです。

 『説文解字』では「福」は「佑」とされています。「福」は「畐」から派生した字であり、『畐(fú)とは満ちることなり。高の省略から成り、高く厚い形を象る』とあります。「畐」は古代の祭祀用器であり、腹を満たして豊穣を象徴し、後に「示」が加えられて「福」となりました。「畐」と「福」は同じ意味です。

 『詩経』の雅頌には「大いなる福を返して、万寿無疆なり」「君子万年、福禄宜し」などの表現があります。「福」とは具体的に何を指すのでしょうか? 古人は「五福」にまとめました。それは、幸福、幸運、長寿、美徳、と平和です。

 唐代の医学・医療専門家である孫思邈は『福禄論』の中で「福とは、善を積むことである。禍とは、悪を積むことである」「福は善行によって得られる」と述べています。伝統文化において、人々は天を敬い、神を信じ、自分の境遇に満足し、天命を知り、徳を積み、善行を行うことを重んじました。儒教、仏教、道教はすべて、人々に神を信じ、善を行い、福を大切し、報恩に感謝することで、真の幸福が得られ、天の加護を受けられると教えています。中国の伝統文化は「神伝文化」と呼ばれ、人と自然、人と社会、人と人との調和した関係において、天人合一の概念が深く根付いています。人々は「因果応報」の真理を信じ、善を積めば天から吉祥が降り、悪を積めば災厄が降りると考えています。だからこそ、人々は常に自分自身を正し、正念に立ち返り、善を基本にし、徳を尊ぶのです。

 (五)漢字における「返本帰真」

 『天人合一』の伝統文化の中には、「天地の創造に参加し、天地の徳に合一する」という浄化の過程があります。修煉や学びを通じて、返本帰真し、宇宙の真理を悟る境地に達することができるのです。

 『説文解字』における「真」の解釈を見てみましょう。「真、仙人が形を変え、天に昇るなり」。甲骨文字では鼎(大きな煮炊き器)の上に人が乗っている形で、これは道家の「安鼎設炉」という修行を通じて返本帰元し、成道(飛昇)すること、つまり「真人」になることを意味しています。「真」の起源を探ると、中国文化と修煉文化の密接な関係が浮かび上がってきます。

 甲骨文字における「真」は、上が飛昇する人、下が鼎を表しています。

 では、「真人」とは何を意味するのでしょうか? なぜ修煉して成道すると「真人」と呼ばれるのでしょうか?

 修煉界では、人の真の生命は「元神」であり、世俗的には「魂」とも呼ばれています。元神は高次元の空間で生まれましたが、その次元の基準に合わなくなったため、次第に人間界に落ちてきて、肉体を得てこの世に生まれました。

 人間界における肉体は、魂がこの空間で存在するための一時的な器に過ぎません。寿命が尽きると肉体は捨て去られ、魂は別の場所へ行きます。修煉する者が修煉を成功させると、天界に戻るか、天国に行くことができます。修煉しない一般の人々は六道輪廻に入り、多くの悪行を犯した者は地獄に堕ちます。

 修煉によって本来の生命に戻ることを、道家では「真人」と呼んでいます。この「真」は「本元、本質」を表す意義を持っています。そのため、後に「真」は「本源、本質」といった意味に派生していきました。たとえば『荘子・秋水』には「慎重に守って失わないようにする、これを返其真と呼ぶ」とありますし、一般的に「帰真反璞」や修煉界で言われる「返本帰真」などの表現があります。

 修煉の過程では、道徳の向上が境地の向上にとって基本となります。

 『説文解字』には「德、昇なり」とあります。甲骨文字では「德」は、人の目が道の中央にあり、その上に向かう一直線で表され、人は正直に進むことが正道であるとされています。金文では「目」の下に「心」が加えられ、ただ目が正しいだけでなく、心も正しくなければならないことを示しています。そして行動も一貫していなければなりません。このような人こそ「有徳の士」と呼べるのです。

 「德」は宇宙と天地の中で、万物の法則に従った本質的な特性とされています。

 ◎德とは道の宿り、万物はこれによって生まれる。(『管子・心術上』)

 ◎孔徳(こうとく)の容(よう)は、ただ道にこれ従う。(『老子・第二十一章』)

   ◎道はそれを生み、德はそれを育て、物はそれを形作り、勢はそれを成す。万物が道を尊び、德を貴ぶのはこのためである。(『老子・第五十一章』)

  ◎德は天を動かし、遠くまで届く。(『書経・大禹謨』)

  ◎德に常に師はなく、善を主とする。善には常に主がなく、一貫した克己に協力する。(『書経・咸有一徳』)

 中国古代には「積德」「守德」や「損德」「缺德」という表現がありました。道に従えば「德を守り、積む」ことができ、道に逆らえば「德を失い、損なう」ことになります。道德の涵養は、東西の文化を問わず中心的な命題でした。

 ◎真の知識とは道徳である。(ソクラテス)

 ◎美徳の道は狭く、悪徳の道は広い。(セルバンテス)

 ◎美は道徳上の善の象徴である。(カント)

 ◎真実は道徳を含み、偉大さは美を含む。(ユーゴー)

 ◎道徳と才能は、富貴に勝る資産である。堕落した子孫は家の名誉を汚し、巨万の富も浪費するが、道徳と才能は凡人を不滅の神とする。(シェイクスピア)

 『説文解字』では「德」の説明は「昇なり」であり、その他は量を示す言葉です。古代の人々は、境地の真の向上には德行と心性が最も重要であると考えていました。これは返本帰真の根本の道なのです。

 (完)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/8/22/480633.html
 
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