観念を変えて怨恨を消し去る
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文/黒竜江省の大法弟子  

 【明慧日本2024年1月4日】修煉する前の私は、母と性格が合わず水と油のように相容れない関係でした。母のやることなすことに私はことごとく反発し、さらには母を見下していました。彼女が家庭に対する主婦の責任を果たしていないと思い込み、心の中で「どうしてこんな母親がいるのだろう」と不満を抱いていました。そのため、しばしば母を傷つけるような冷酷な言葉を口にし、彼女を泣かせてばかりいました。 その結果、母はいつも悲しみに暮れ、抑うつ状態になっていました。

 修煉を始めた後、このような私の態度は間違っていることに気づきました。それは「真・善・忍」の法理にも、伝統的な道徳観にも反するものでした。気づいたものの、トラブルに直面すると、やはり心性を保つことができないことがあり、そのたびに深く後悔したものです。にもかかわらず、母に対する長年の観念と執着により、母親への態度を改めようとしてもなかなか変えられませんでした。

 修煉を続けていくうちに、母と衝突が起きた際に「忍ぶ」ことができるようになりましたが、それは表面的な忍耐であり、心の中ではなお母に反発していました。そのことが私をさらに悔やませては辛くなったものです。心を静めて内に向けて自分を探してみると、自分の観念が変わっていないことが原因だと気づきました。

 いつも問題を表面上だけで扱うことしかせず、法による認識と向上ができていなかったのです。そのため、なかなか執着を手放すことができず、救うべき衆生として母を見ることなどできず、相変わらず家族として見続けていたのです。

 母とのトラブルが私の心に与える衝撃こそが、実は私の心性を高めるための機会なのではないでしょうか? さらに、私が過去において母を傷つけてきたその報いを、今受けるのは当然であり、報いを受けられることはむしろ感謝すべきだと思いました。このことに気づくと、心がずいぶん穏やかになり、母と向き合うときの私のまなざしは優しくなり、口調も和らぎました。また、母親業というものがいかに大変なものなのかということにも気づき、母に対して思いやりを持って接するようになったことで、私たち母娘の関係は改善されました。

 ある日、母がまた以前の出来事を持ち出してとても怒りだしました。それを聞くのは苦痛で、話の内容は聞くに堪えないものでした。

 しかし、そんな母を眺めていたら、ふとこう考えました。「これをしているのは母自身ではなく、長年母をさいなんできた怨恨心そのものがしているのだ」と。

 他の空間に存在するその怨恨心は、この空間の母に作用を及ぼすと同時に、私に心性を高める機会を与えているのです。

 しかし、それを知らない母は、怨恨心の作用下にある自分を本来の自分自身だと思い込んでいます。常人とは、皆そんなものではないでしょうか? なんと憐れなことでしょう。そのような母と何を争うことがあるでしょうか。

 同時に、自分の強い自我にも気づきました。いつも自分の観念で母に要求してはそれに辛(から)い評価をくだし、「どうして私の言うことを聞かないの?」「私の言う通りにすれば、そんな面倒なことにはならないのに」と口癖のように言っていました。

 しかし、すべてが自分の思う通りに進み、何の困難もないとしたら、修煉する必要がどこにあるのでしょうか? 修煉とは、心性を磨きながら執着を取り除いていくものではないでしょうか。

 このことに気づいたとき、私の心は慈悲に満たされ、長年の怨恨心は完全に消え去りました。その結果、母も穏やかになり、まるで何事もなかったかのようになりました。大法の超自然的な性質を実感しました。

 以前であれば、母がこのような状態になると、一日経っても解決できず、母自身を苦しめるだけでなく、私の心も強い刺激に同様していました。

 しかし今では、私は両親と一緒に暮らしており、衝突が起こることもほとんどありません。両親同士もほとんど口論をすることがなくなり、2人とも法輪大法の書籍を読み、多くの恩恵を受けています。

 私たち家族は法の光に包まれ、とても幸福に過ごしています。慈悲深い師父に心から感謝いたします!

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/12/28/486849.html
 
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