文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年1月5日】ある時期、名・利・情(名誉、利益、情)への執着のため、心の中に一種の「寂しさ」のようなものがありました。それが自分を落ち着かせず、三つのことを行うことに影響を及ぼしました。
家族用の車を買いたいという執着のため、車に関する情報を調べる必要があり、よく自動車販売サイトを閲覧していました。頭の中は高性能、低価格、評判の良い車を購入したいという一心で、車の仕様や価格、価格差の変化などの情報に繰り返し注意を払っていました。利益を中心に考えており、目標やエネルギーをそのことに注いでいました。
名・利・情への執着が非常に顕著に表れていました。徐々に車や車市場について詳しくなり、さらに慣れ親しむようになりました。常人と車市の話題について話すときは、話に夢中になってしまいます。頭の中はそれらのことばかりでいっぱいになり、ついには自動車情報サイトを手放せないほどになってしまいました。
自分でもこの状態が正しくないと分かっているのですが、それでも見るのを止められず、強い執着から形成されたものに支配されているのです。見なければ、それが頭に浮かび、心が空虚で寂しく、落ち着きませんでした。たとえ車を買わなくても、見ることで心が落ち着くのでした。他のショッピングサイトにも似たような状況がありますが、それほど目立つものではありません。それによって法を学ぶこと、法を暗記すること、法を書き写すことが落ち着いてできなくなりました。
三つのことを行う時間が多く侵害され、家庭の問題も表面化し、体調不良も現れるようになりました。修煉の状態はかなり悪化しました。時には強い拒絶する心を持ってそれに立ち向かい、そうしたサイトを見ないようにすると、その時は少し改善し、見なくなるのですが、それでも心の中ではそのことを考えていました。しばらくすると、またその「寂しさ」のようなものが湧き上がり、再びそれを見たくなってしまうのです。
毎回、車種を決めて購入しようとすると、家族が強く反対し、結局買えませんでした。そのため、傷ついたような、そして失望した気持ちが長く消えませんでした。この感覚を何度か経験するたびに、車を買いたいという気持ちは少しずつ薄れていきました。実際には、執着心を手放していく過程だったのです。しかし当時はそれに気づかず、家族が理解してくれないと思い込んでいました。ただ、自分は修煉者であり、家族と対立してはいけないと考えていただけで、これが非常に強い執着だとは認識していませんでした。次第に、車を買いたいという欲望は薄れていきましたが、根本的に車を持ちたいという執着は取り除けていませんでした。車を買わなかったとしても、自動車サイトを閲覧する依存症はずっと消えませんでした。このような状態が断続的に7~8年も続きました。
自分の他の面での執着にも「寂しさ」を感じることがあります。ただ、修煉の初期にはそれをはっきりと自覚することはありませんでした。例えば、常人の雑談の雰囲気に参加しないこと、同修と修煉の感想を語り合わないこと、常人の事務的な用事を片付け終わらないことなどでも、「寂しさ」を感じることがありました。
少し前、学法中にようやく正念が生まれました。「車は私にとって必需品ではありません。それなのに、なぜそんなに必要のないものに執着しているのだろう? 自動車サイトを閲覧することで、こんなに多くの時間を浪費している。この状態を変えなければならない」と。
私は役に立たないすべてのショッピングサイトを一切見なくなりました(他の常人向けのサイトはもともとずっと使っていませんでした)。心をしっかりと固めると、まるで師父が弟子の「執着」をたくさん取り除いてくださったかのように、「寂しさ」の感覚はすぐに消え、心もシンプルになり、考えることは三つのことだけになりました。全身がとても軽く感じられました。実際、車があるかないかは問題ではなく、問題は名・利・情(名誉、利益、情)への執着を手放せるかどうかだったのです。