文/中国の青年大法弟子 雲逸
【明慧日本2025年1月8日】私が生まれた時、家庭は困難な状況にあり、母は私が小学校に入学する前に亡くなりました。そのため、私は子供のころから劣等感があり、嫉妬心も強かったのです。幸いなことに、その後、家族が法輪大法を修煉したことで、穏やかな家庭がもたらされ、人より劣っていることや嫉妬心は少しずつですが薄らいでいきました。しかし、1999年7月、中国共産党は法輪大法を迫害し始めました。大法と家族に対する迫害の圧力は、私の劣等感と嫉妬心をさらに深刻にしました。
私が常人の時、自分より優れている人がいると聞けば、うらやましいと思いながらも相手を見下すような感じで、自分も落ち込んだりしていました。自分の言葉や表情までコントロールすることもできないほどでした。時には思わず軽蔑的な態度や喪失感を出し、さらには小さなことでも動揺してしまって、長い間自分を落ち着かせることができませんでした。
大法に接した当初は、修煉の本当の意味を理解していなかったので、自分より優れている人がいると聞いたり、見たりすると「私は修煉したのだから、修煉は最も尊いもので常人が持っているものより遥かに良いはずだ」と思っていました。
それは自分を慰めているだけで、実際には自分の中の嫉妬心がなくなったわけではなく、常人の時より嫉妬心が強烈ではなくなっただけでした。
実はこのとき、私はまだ「私は修煉している」ことと、常人の物質的な富を比較対象にしていたのでした。はっきり言えば、このときは「私は修煉している」を使って自分を麻痺させ、慰めているだけなので、嫉妬に直面するときの一種の回避行動になってしまっていたのでした。実際、多くの場合、このような慰めのための麻痺は何の役にも立たず、時折、やはり憤慨したり、嫉妬することになるのでした。
私は、大法修煉の法理をある程度理解し、すべての物事が按排されていることも理解しており、損得に対してそこまで執着していません。ところが、自分より優れた人と出会った時、すべては縁によるものだと理解しているのですが、何となく落ち込んだりしてしまい、心の底から相手を賞賛することができないのです。この時、嫉妬の状態は比較的軽く、自分が間違っていると気づいていたのですが、率先して嫉妬の念を排除しようとせず、その心を修めることはできないのです。
しかし、私は真剣に法を学び修煉する中で、修煉と嫉妬についての理解が深まり、能動的に自分の一つの考え、一つの念を修める必要があることを理解するようになりました。
現在、自分より優れた人に出会ったとき、時折嫉妬の思いを抱くことがありますが、自分のその嫉妬の念に進んでいくと、これは嫉妬心だとすぐに気づき、すばやくこのような誤った考えに正しく対処できるようになりました。同時に「私は修煉している 」ということを強く感じ、心の底から「修煉」に感謝し、幸せな気持ちになります。私は「私は修煉している」ことを常人の物質的な豊かさと比較するために使っていません。より優れている人は、その縁があるからそうなったのだと理解しています。修煉者は楽観的で、良いことがあっても、悪いことがあっても、穏やかな心を持つべきだと私は理解しています。
嫉妬心を取り除く過程を通じて、修煉とは何か、一つの念、一つの考えを修めるとはどういうことか、能動的に修煉するとはどういうことかなど、少しずつ理解できるようになりました。師父と大法の慈悲と救いに感謝いたします!
以上、嫉妬心を取り除いていく過程で気づいたことを書きましたが、もし間違っているところがあれば、同修に訂正してもらいたいと思います。