文/山東省の大法弟子
【明慧日本2025年1月9日】私は1997年に法輪大法の修煉を始めた古い学習者です。修煉の道を歩んでいる中で、多くの失敗がありました。修煉したばかりのとき、ただ大法が素晴らしいと感じていただけで、大法とは何か、法を正す修煉とは何か、大法弟子が持つべき使命と責任について全く理解していませんでした。内に向けて探すのも表面的なもので、言い換えれば、いかに修煉するのかが、まったく分かりませんでした。もし師父が巨大な耐え忍ぶ力と多大な犠牲をもって、貴重な時間を延ばしてくださらなければ、私のようなしっかり修めていない弟子は、今どこにいるか分からないでしょう。師父の慈悲深い救い済度に感謝します!
何年も前のことですが、明慧ネットで根本的な執着についての記事を目にするたびに、私はそれを読んでいました。同修が言う根本的な執着が自分にもあると感じ、ずっと自分の根本的な執着を探していました。根本的な執着を取り除かない限り、円満成就することはできないと分かっていたので、それに対してはかなり重視していました。
ある日、私は当時修煉を始めたときの心境を考えました。当時、私は体調が悪く、家で静養していました。同僚は彼女の姑が法輪功を修煉して全身の病気が治ったと教えてくれて、私に法輪功を勧めました。こうして私は修煉の道を歩み始めましたが、病気治療を目的にしていませんでした。「それでは、一体どんな心で入ったのだろう?」と考えてみたとき、ある出来事を思い出しました。それは、私の職場で昇給があり、従業員による評価が行われました。私は丙班から乙班に異動になったのですが、乙班の班長とはあまり顔を合わせていませんでした。評価の結果、私は選ばれましたが、班長と親しい関係のある同僚は選ばれませんでした。その班長は私を外してその同僚を選びました。誰かがそのことを私に教えてくれ、私はとても腹が立ち、会社の上層に異議を申し立てました。その時、私は「人々は自分のために互いに腹を探り合って暗闘したり、利益を争い合ったりしている。この世の中は本当に苦しい」と感じました。そんな状況の中で『転法輪』を読んでみたところ、その本は「どう生きるべきか」を教えてくれました。それから、再びこんなことやあんなことに遭遇しても、心はそれほど苦しくなく、少しは理解できるようになりました。これが私の根本的な執着、いわゆる常人の幸せな生活を追い求める執着だったのです。
最初は、自分の根本的な執着を見つけましたが、確実に修めておらず、ただそのままで放置していました。そして、もし自分にとって根本的な利益に触れることがあれば、すぐにそれを拒絶し、すぐに自分を守ろうとしました。「自分」を傷つけられたくない、「自分」の利益を失いたくないという思いから、自分を守ろうとしていました。このように何年もこの根本的な執着の中で迷い、重大な試練を乗り越えられず、小さな修煉の関門も通過することができませんでした。
最近、私たちの地域で一人の同修が中国共産党(以下、中共)に連行され迫害されました。同修を助けるため、私たちは救援チームを結成しました。その過程で、私自身の多くの人心や不足が浮き彫りになりました。最も顕著に現れたのは恐怖心で、責任感を持たず、困難に直面すると前に進む勇気がなく、他の人にやらせようとする気持ちがありました。自分を守る心は、非常に利己的な人心でありますが、私はその汚い心を捨てずに、肝心な時にそれを自分だと思い込み、それに左右されてしまいました。さらに長年にわたって存在している問題は、中共の党文化から来る闘争心と負けず嫌いの心が、とても善良ではありませんでした。自分の観念に合わないものに対して、必ずこの心が作用し、「納得できない」「自分を証明したい」「自分が間違っていたとしても、他の人も間違っている」といった思いが湧いてきて、心の中でバランスが取れなくなりました。
しかし、大量の学法と確実に修めることを通して、大法修煉の厳粛さと、その中で一つ一つの思いと念がいかに重要であるかを本当に理解しました。まず基点を正しくしなければならず、すべてが法を正す視点から問題を見るべきだということです。すべては大法を証明し、衆生を救うという基点の上で行うべきであり、どんなトラブルや魔難に直面しても、師父の教えに従って内に向けて探し、外に目を向けず、誰のせいにもせず、何も恨まずにしっかりと自分を修めるべきです。大法の法理から知っていた通り、すべては自分の業力によって引き起こされたことであり、それを受け入れて冷静に向き合うべきです。実際、すべては自分の向上のためのステップであり、すべて良いことであり、本当にその通りです。行動する中で、結果にこだわるのではなく、私たちが注目すべきなのは、この過程で確実に修煉したかどうか、常人的なもの、観念を放下したかどうかなのです。
同修の救援を通して、私は自分の根本的な執着を完全に見抜くことができました。魔難やトラブルを乗り越えられないのは、すべてこの根本的な執着が原因であり、現れたすべての人心もそれから生じてくるものだと分かりました。ですから、今では人心や観念が現れると、すべてが根本的な執着と直接的に関連していることに気付いたので、私は根本的な執着から取り除くようにしています。
個人的な心得なので、正しくないところがあれば、ご指摘をお願いします。