発正念と旧勢力の迫害を否定した体験
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文/アメリカの大法弟子

 【明慧日本2025年1月12日】これは数年前の体験です。この出来事を通して、同修の皆さんと発正念の力、そして旧勢力を否定することの大切さを共有したいと思います。

 2019年頃、ある時期から左足が痛み始め、次第に両足を組んで座禅ができなくなりました。そのうち片足を組んでも激痛が走り、第5功法を1時間続けるのも難しくなったのです。

 私は「修煉を20年以上続けてきたのに、最後に座禅すらできなくなるなんて、嘘みたいな話だ」と思いました。しかし、痛みは本当に激しく、片足だけの座禅でも終えた後には涙が出そうなほどでした。原因をいろいろ考えました。「もしかして、年齢のせいだろうか? もうすぐ50歳になり、更年期に入っているし、骨も硬くなっているのかもしれない。それとも、冬の寒さで服が薄かったせいだろうか? いや、新しく始めた長時間の立ち仕事が原因かも?」。どれも可能性はあるように思えましたが、どれも決定的な理由とは感じられませんでした。こうして痛みに耐えながらも、煉功学法、仕事は何とか続けていました。

 ある金曜日、全体学法に参加しました。その日は『轉法輪』第六講を学んでいました。学法中、足の痛みがひどく、片足だけでなく両足も痛みました。普段は全体学法では必ず足を組むのですが、その日は最初から最後まで足を組むことができず、痛みがずっと続いていました。学法が終わった後も、「今日はどうしてこんなに足が痛かったのだろう」と考え続けていました。

 師父は私が悟れないのを見て、ついに教えてくださいました。ふと、その日に学んだ第六講の内容が浮かび、私の色欲心に関連があるのではないかと思いました。第六講の学法で色欲心に触れた部分があり、それが暴露され、解体されようとしているのではないか。そして、そのために激しい痛みが起きているのだと気づきました。それで、色欲心を解体するために発正念を試してみることにしました。

 ちょうど翌日は週末だったので、集中して時間を取り、色欲心を清めるための発正念を行いました。30分ほど発正念をしましたが、あまり効果を感じられませんでした。その時、私はこう考えました。「色欲心は1日や2日で形成されたものではなく、人間関係の中で長く蓄積されてきたものだから、この業力をすぐに全て取り除くのは難しいのではないか」。そこで、その日は発正念を切り上げ、これから毎日少しずつ時間をかけて色欲心を排除し、清めるために計画しました。

 その時、師父の説法で学んだ法理がふと頭に浮かびました。「たとえ漏れがあっても、私は法の中でそれを正していくのであり、旧勢力がその漏れを利用して迫害することは許さない」。この言葉から私は重要なことに気づきました。「もし足が痛くて、座禅ができなくなり、正常に煉功と生活、仕事ができなくなるとしたら、それは間違いなく旧勢力による干渉や迫害だ。私はこれを認めるわけにはいかない。旧勢力による迫害や干渉を追放しなければならない」と。

 そこで私は、再び発正念を始めました。今度は旧勢力の迫害を一掃することに焦点を当て、「たとえ漏れがあっても、私は法の中で正していく。旧勢力の迫害を認めない。私を迫害する邪悪な生命を取り除く」と強く念じました。すると、不思議なことが起きました。この一念を発した瞬間、足の痛みが完全に消え去ったのです。まるで何かが一瞬で取り除かれたかのように、足が痛かったことさえ思い出せないほどでした。それまでの激しい痛みが嘘のように消え去ったのです。

 私はその瞬間、「本当にこの一念で、天と地ほどの違いが生まれるのだ」と心から感じました。私は自分が正しく悟り、法に則ったことで旧勢力が私を迫害する力を失ったのだと理解しました。この試練を乗り越えたことで、心が本当に軽くなったのです。その時、どこからともなく声が届き、「まあ合格としよう」と言われたように感じました。しかし、その言葉には喜びや善意の祝福はなく、どこか無力感や不満を含んでいるように感じられました。

 私は、その言葉が旧勢力から来たものだと気づきました。それは旧勢力の生命が持つ無力感や不服そのものです。旧勢力は、私に色欲心があることを理由に迫害を試み、足を痛めつけ、座禅をさせないようにして、修煉を妨害しようとしたのです。しかし、私は師父の説かれた法理を思い出し、旧勢力の迫害を認めず、発正念でそれを一掃しました。その結果、旧勢力は手の打ちようがなくなり、撤退せざるを得なくなりました。ただし、彼らは納得できず、悔しさと無力感を込めて「まあ、合格としよう」と言い放ったのだと理解しました。

 足の痛みが完全に消え去り、悪いものが除去されたことを感じ、私は発正念を終えようと思いました。しかし、この「まあ合格としよう」という言葉が私に警戒心を抱かせました。「旧勢力が、私が試練を乗り越えたかどうか、判断する資格などあるのだろうか?」と。

 旧勢力は、大法弟子の小さな漏れを口実に迫害を加え、まるで試すかのように穴を掘って、そこに引きずり込もうとする。もし、その穴から自力で抜け出せれば「あなたは合格です」と言い、もし抜け出せなければ、「自分の力不足だ」と見せかける。しかし、そもそも旧勢力が大法弟子に試練を与える資格などありません。大法弟子の全ては師父が按排してくださり、誰にもその道を勝手に決める権利はないのです。もし、旧勢力が「あなたは合格だ」と言い、それに満足してしまえば、旧勢力の仕掛けた試練を受け入れたことになります。それでは、彼らの按排に基づいた修煉になってしまいます。

 このことから私は、旧勢力の行いは全て認めてはならないと、さらに確信しました。それが邪悪な形であれ、表向きの「認める」という形であれ、旧勢力そのものを完全に否定し、存在自体を一掃しなければならないのです。私は発正念を終えようと思いましたが、「お前たちに何の資格があるのか? 『合格』だとか『不合格』だとか、判断する立場にはいない」と強く思い直しました。そして、「私が試練を乗り越えたとしても、あなたたちを放ってはおかない。徹底的に除去する」と心を定め、さらに力を込めて発正念を続け、旧勢力の妨害をすべて除去しました。

 師父は「旧勢力の按排か業力なのかにかかわらず、まず自分を考えるべきです。皆さんが正念を発する時でも、まず自分をきれいにするようにと私は教えました。まず自分を見て、自分に問題があれば、それを正しく対処すればよいのです。この場合、旧勢力にも成す術はなく、あなたの弱みを掴むことができず、自ずと止めてしまいます。もちろん、現在旧勢力が妨害をやめたとしても許すことができず、徹底的にそれらを根絶すべきです。正念を発して自分をきれいにしてから、旧勢力を根絶してください」(『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」)と説かれました。

 私が理解したのは、発正念の中で時に旧勢力が一見おとなしくなり、退いたように見えたり、あるいは「合格だ」と認めてくる場合がありますが、こうした時こそ警戒を緩めてはならず、その迷惑な手口に惑わされるべきではありません。私たちは旧勢力の迫害を完全に否定し、彼らの存在そのものを否定し、徹底的に排徐しなければなりません。同時に、自分自身をしっかり修め、あらゆる執着心や不純な心を取り除く必要があります。それは「迫害を避けるため」でも「隙を与えないため」でもなく、大法弟子として無条件で大法に同化し、大法が求める基準を達成するためなのです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/1/8/488068.html
 
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