執着を根本から取り除く 溶錬して真の金となる
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 【明慧日本 2025年1月30日】最近、同修の交流文章を読んでいた時、師父が『円満に向かって』で初めて「根本的な執着」という概念を提起されたことに触れていました。修煉を始めて29年になりますが、私はこの「根本的な執着」について真剣に探求したことがなく、同修との深い交流もありませんでした。そこで『円満に向かって』を読み返しました。

 師父の法は私を目覚めさせ、根本的な執着を取り除かないことの深刻さを認識しました。内に向かって探し、根本的な執着を見つけ出し、取り除こうと決意しました。師父の説法と照らし合わせ、真剣に考えた結果、当初の根本的な執着が分かりました。それは、大法は病気を治せる、健康な体が得られる、寿命を延ばせるという考えでした。

 修煉を続けるうちに、当初の根本的な執着は徐々に薄れていきました。師父は何度も弟子の体を浄化してくださり、病気のない体の素晴らしさを体験しました。20年以上の修煉の中で、薬を飲んだことも注射を打ったこともありません。病業の仮相が現れた時も、大法と師父への堅固な信念で乗り越えてきました。

 師父は弟子を悟らせてくださり、ある時の打坐で、天目で空から真っ白な絹の帯がゆっくりと私の前に舞い降りてくるのを見ました。「真・善・忍」の三文字がはっきりと見えました。私は悟りました。私は師父と誓約を交わした弟子であり、大法を修煉する根本的な目的は、自分の誓約を果たすこと、つまり師父の正法を助け、衆生を救い度することです。当初の考えは間違っており、完全に私利私欲でした。この根本的な執着の根は、私利私欲、利己心にあります。今日それを暴露し、解体し、根本から取り除きます。

 師父は仰いました。「もし皆さんが修煉の中で本当に人の根本的な執着を取り除くことができれば、最後のこの魔難はこれほど邪悪なものにはならなかったでしょう」(『精進要旨二』「円満に向かって」)

 私たちが根本的な執着を取り除かなかったことが、この法難の最後の段階での激化を招いたのです。

 師父が仰る人を救うことの難しさには、大法弟子も含まれていると私は理解しています。

 師父は仰いました。「歴史上の佛教の法難、キリスト教の300年の迫害について、皆さんは邪悪が正に勝ったと思いますか?そうではありません。それは神が邪悪の狂気を利用して弟子たちを円満に導き、人々を円満に導いていたのです」(『各地講法十三』「2015年アメリカ西部法会での説法」)

 私たちは正法時期の大法弟子であり、大法の一粒子です。法難は大法弟子自身の難であり、衆生の難です。しかし師父は最大の慈悲をもって、衆生のため、弟子たちのために巨大な魔難を引き受け、弟子たちの業力を減らしてくださっています。それは法難の中で一人一人の大法弟子を錬成し、大法弟子を成就させるためです。師父の無量の慈悲がより一層際立ちます。真修の弟子として、師父が極めて大きな忍耐で延長してくださった真金を錬成する修煉の機会を大切にし、自分が歩んできた道を大切にしなければなりません。早く根本的な執着を認識し、取り除かなければなりません。邪悪に迫害の口実を与えてはならず、邪悪に隙を突かれてはなりません。堅固に大法を守り、師父を守り、大法弟子の神聖な使命を果たすことです。これもまた師父への感謝、師父への恩返しの表れです。

 法難は大浪淘沙(大きな波が砂を洗い流すように、良いものと悪いものを選別する)の過程でもあります。そのため大法弟子一人一人が厳しい考験と検証に直面しています。三つのことを怠ることはできず、しっかりと法を学ばなければなりません。法をよく学ぶことが根本であり、早く法上で向上しなければなりません。法難が始まったばかりの頃、発正念について、師父がいらっしゃるのだから、師父がどう仰るか見てみようと提案した同修がいました。しかし師父はすでに仰っていたのです。

 師父は仰いました。「大学の試験と同じように、試験場で先生がまた試験問題の解き方を教えることができるでしょうか」(『精進要旨二』「干渉を排除する」)

 法は、師父がすでに私たちに教えてくださいました。あとは弟子たち自身が悟り、自身で修めなければなりません。法があるのですから、試験の場で、法を師として、法で私たちの大法修煉の道を正しく歩むよう導き、本当にその心を実修し、根本的な執着を取り除かなければなりません。

 次元に限りがあり、不適切な部分がありましたら、同修の皆様からご指摘いただければ幸いです。

 
翻訳原文(中国語): https://www.minghui.org/mh/articles/2025/1/23/488953.html
 
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