文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年2月7日】私は1996年から法輪大法の修煉を始めました。青年期から中年期へと歳を重ねる中で、修煉において多くの苦難や試練を経験し、徐々に理性と成熟へと向かいました。今日は、私の修煉体験の一部と心の変化の過程を書き記し、同修の皆さんと交流したいと思います。
修煉を始める
私は1996年に法輪大法の存在を知り、修煉を始めました。当時私は20代でしたが、すでに何年も薬と毎日付き合う生活を送っており、長年の「病弱者」でした。その年の夏、またお腹が張る問題が現れたため病院で検査を受けましたが、いくつもの病院を回っても原因が分からず、最終的に市内で一番大きな病院に行きました。しかし、そこでも分かりませんでした。医師は大腸内視鏡検査を勧めました。大腸内視鏡検査は空腹で行う必要があるので、私は家で待っていました。
私の母親の同僚の1人が、私が若いのに重い病気に苦しんでいるのを見て、私に法輪功を試してみるようにと私の母親に勧めました。母親は私のために『法輪功』『轉法輪』などの書籍と、功法を教えるDVDを持ち帰りました。
私は以前、気功を習っており、病気治療のために気功専門の診療所にも通い、いくつかの気功に関する報告を聞きに行ったこともありましたが、それらは全て病気を治したり健康を増進したりするためのものでした。しかし、心の奥底では、より高次元の修煉をしたいという思いがありました。ある時『法輪功』を開いてみると「本当に高い次元を目指して修煉する大法のことです」と書かれていました。私は心が奮い立ち、一気に『法輪功』を読み終えました。それまで焦燥感や不安で落ち着かなかった心が静まり、自分が探し求めていたものを見つけたと確信し、自分にはもう病気がないと感じました。その後、病院で検査を受けたところ、本当に全て正常でした。
私は待ちきれずに、書籍やDVDに示されている動作に従って煉功を始めました。動作はすぐに覚えましたが『轉法輪』を手に取って読んでみると、多くの分からないところがあり、多くの箇所が理解できないと感じました。一体どういうことでしょうか? 考えても分からず、当時は交流する環境もなかったため、家で1人で自習するしかなく、ただ動作を煉るだけで、学法の重要性をまだ理解していなかったため、向上は非常に遅かったのです。
1997年に師父の『シドニー法会での説法』で、師父が宇宙の構造、宇宙は幾重にも重なっており、無限に大きく、無限に小さく、尽きることがない、と説かれているのを拝読しました。私はたちまち真理を理解し、自分の問題点がどこにあるのかを理解しました。
私は自我の角度から大法を認識し、修煉を認識しており、常に自分が理解できるかどうか、現代科学が認識できるかどうか、と実証科学の角度から認識していたため、どうしても理解できないことが多くあったのです。私はこの宇宙において一体何なのでしょうか? 塵の一粒の塵にも及ばない存在です。私が自分の考える正しさや間違いによって大法を認識し、宇宙を認識するなど、どうしてできるでしょうか?!
この道理を理解して、再び『轉法輪』を手に取って読んでみると『轉法輪』の中にすでに宇宙の構造について説かれていることに気づきました。私はなぜ以前読んだ時は理解できなかったのでしょうか? 再び『轉法輪』を手に取って読むと、もう二度と手放せなくなりました。
1998年、煉功場で師父の海外での説法のビデオテープが上映され、私はほぼ毎回欠かさず拝見し、向上が早くなり、修煉に対する認識も深まりました。その時、私は必ず修煉を最後までやり遂げようと決意しました。
北京へ行き法を守る
1999年の「7.20」以降、集団で修煉する環境を失い、毎日テレビで流される嘘偽りの宣伝を見るにつけ、非常に心が重くなりましたが、どうすれば良いのか分からず、ただ毎日学法と煉功を続けるしかありませんでした。
年末になると、徐々に周りの同修と連絡が取れるようになり、同修たちが北京へ請願に行っていることを知りました。私も母も北京へ請願に行くことを計画し、列車の切符もすでに購入していましたが、先に北京へ行った同修たちが拘束され、送還されている途中であるとの情報が伝わってきました。宿舎の入り口にも見張りが立つようになりました。私たちはやむを得ず列車の切符を払い戻しました。
しかし、私の心はなかなか落ち着かず、最終的には1人で北京へ行くことを決意しました。ある同修が私の荷物を宿舎から持ち出すのを手伝ってくれ、私は1人で駅に向かい、何度か乗り換えをして北京に到着しました。同修から教えてもらった連絡先はどこも連絡が取れず、最終的に天安門広場へ直接行くことに決めましたが、そこで天安門派出所に連行され、その後、在京事務所(訳注:中国の地方政府[省、自治区、直轄市など]が北京に設置している出先機関)に移送されました。
そこで他の同修たちと再会しましたが、その後、地元に送還され、最初は麻薬更生施設に1、2日拘束された後、拘置所に移され、15日後に派出所に引き取られました。警官に今後も修煉を続ける意思があるかどうか尋ねられ、続けると答えるとまた拘置所に送り返される、ということを言われました。このようにして、私は十数回も繰り返し拘束されることになりました。
繰り返し拘束されていた日々の中で、ほぼ毎回、1、2人の年配の同修と私が同じ監房に入れられました。当時、私は学法が少なく『論語』も北京へ行く列車の中で覚えたほどで、経文は1編も暗記していませんでした。年配の同修は多くの経文を暗記していたので、私は彼らについて一句一句暗記し、釈放されて戻ってきた時に照らし合わせてみると、ほぼ一字一句違わぬほどでした。
監房の人たちは皆、私たちが煉功するのを好んでいました。拘置所の環境は劣悪で、人々はなかなか眠ることができませんでしたが、私たちが一度煉功を始めると、彼らは静かに眠りにつくことができたからです。当時、私が抱輪(訳注:両腕を体の前で円形に保つ姿勢)をすると、法輪の回転を感じ、座禅をすると身体が大きくなったり小さくなったりするのを感じました。一度だけ例外があり、私は同修のいない2階の監房に入れられました。同修はおらず、その監房の牢頭は態度が非常に悪く、いつも下品な仕草をしたり、下品な言葉を口にしたりしていました。ある日、私は監房の壁に一つの文字があるのを見つけました。最初ははっきりと見えませんでしたが、だんだんとはっきりと見えるようになり、それはほぼ人と等しいほどの大きさの「忍」という文字でした。私は自分が同修のいない監房に入れられた理由を理解しました。心から師父の按排に感謝し、その期間に私が飛躍的に向上できたことを感謝申し上げます。
管轄区域の派出所は、北京へ請願に行った多くの同修を拘置所に送り、繰り返し拘束していました。人数は増え続け、みな非常に ゆるぎなく、中共に妥協しませんでした。拘置所側はますますプレッシャーを感じるようになりました。
ある時、私が拘置所の入り口で、拘置所の看守が管轄区域の戸籍担当の警官に、このような反復拘束は規定に合致していない、ということを話しているのを聞きました。戸籍担当の警官は困った様子で、「派出所の所長がどうしてもこうするように言っている」と答えました。その後、2人の高齢の大法弟子が拘置所に送られてきました。高齢の大法弟子たちは皆、退職した幹部であり、拘置所側は何か問題が起こることを恐れ、断固としてこれ以上の受け入れを拒否したため、私たちは全員帰宅することになりました。
その後、私は何度も北京へ請願に行きました。二度目の時は、十数人の同修と別々に出発し、別の都市で合流してから北京へ向かいました。北京に到着し、ある接待所(訳注:北京に請願に行く学習者が情報交換を行うための場所)に行ったところ、そこで師父の新しい経文『圓満成就に向かって』を目にしました。私たちは皆、非常に幸運だと感じました。
それは私たち自身が圓満成就への第一歩を踏み出したからでした。交流した後、私たちは天安門広場へ行き、広場で横断幕を広げ、心からの叫びで「法輪大法はすばらしい! 法輪大法は正法です! 師父の汚名を返上せよ!」と叫びました。私たちは天安門派出所に連行されました。その日は派出所には当直の警官しかおらず、私は邪悪が潮が引くように退いていくのを感じました。警官は私たちにどこから来たのかを尋ねましたが、私たちは誰も答えず、ただ空を指さしました。警官は「分かりました。あなたたちは天から来たのですね」と言いました。そして私たちを1人ずつ釈放しました。私たちはみな非常に喜び、すぐに故郷に戻って同修と交流し、より多くの同修が天安門広場へ行くように促すことを決めました。
最後に北京へ行ったのは2001年元日前後だったと記憶しています。その時は状況が非常に危険だと感じました。私は同修とはぐれてしまい、1人で天安門広場で横断幕を広げたところ、天安門派出所に連行されました。その日はすでに深夜で、多くの同修が大声で『洪吟』を暗唱していました。警官が私の前に来た時、私は一瞬ためらいを感じ、警官は平手で私を打ちました。私は自分に恐れの心があることに気づき、大声で『洪吟』を暗唱し始めると、警官は何も言わずに立ち去りました。
その晩、私たちは2台の大型バスで郊外の留置場に連行され、翌朝、西城区留置場に移送されました。そこで高齢者と子供は釈放され、氏名と住所を明かさない若い人たちはそれぞれ別の監房に収容されました。私が煉功しようとすると、監房の牢頭に殴られたため、私は絶食しました。翌日、強制的に灌食させられました。当時、私は非常に強い怒りを感じ、これは故意に人々を苦しめているのだと感じました。ある日、灌食の管が私の肺に挿入されてしまい、突然1人の医者が現れ、聴診器で聴診し、挿入箇所が間違っていると言って、管を挿し直しました。その日の灌食が終わった後、私の体全体が震えていましたが、それは一種の生まれ変わったかのような感覚でした。
ある晩、私は監房から呼び出され、1人の医師から問診を受けました。それは私が収監時の登録で、かつて心臓病、胃病、肝炎、胆のう炎、腸炎、副鼻腔炎などを患ったことがあると申告していたことについてでした。医師はそれが事実かどうかを尋ね、私は事実だと答えました。医師はそれ以上何も尋ねずに私を帰しました。およそ1週間後、警官は私たち13人の修煉者を北京駅の外に連れて行き、すぐに立ち去るように、二度と北京に戻ってこないようにと命じました。
それから何年も経って、海外メディアが生体臓器収奪に関する記事を掲載しているのを目にしました。あの時の医師の問診を思い返し、氏名と健康状態を明かさなかった人は辺境の地に連れて行かれて、生きた臓器の供給源の一員とされたのだと理解しました。
(続く)