トルコ法会|心を修める(一)
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文/トルコの大法弟子

 【明慧日本2025年2月10日】

 尊敬なる師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は2007年に兵役を務めていたとき、初めて法輪大法について聞き、2008年に退役後、法輪大法を修煉し始めました。その時、私はすでに約3年間、異なる種類の瞑想を行っており、それ以前は長い間、座禅が私の生活の一部でした。しかし、法輪大法の修煉は全く異なっていました。最初に法輪大法に出会った時、私は渇望するように学法し、毎月何回も本を読みました。法輪大法は単なる高次元の修煉法門であるだけでなく、私の生活の中のすべての問題に対する答えを得ることができ、この修煉法門がとても気に入りました。

 したがって、法輪大法は身体の修煉にとどまらず、精神の修煉でもあり、言い換えれば、それは心を修めることです。

 それから何年も経ちましたが、私にとってこれは非常に素晴らしい時間でした。たとえいくつかの困難を経験したとしても、今振り返ると、すべてが私の修煉と向上の一部であったことが理解できるようになりました。

 最近、私は多くの心性の向上に関して多くの悟りを経験し、それによって自分の心性向上の過程を振り返るようになりました。一人の修煉者は一つの心しか持っておらず、一つの道か一つの法門しか歩むことができないことを知っています。歴史的に見ても、どんな修煉法門であっても、全身全霊で修煉する修煉者だけが、本当に成功し、「正果」を得る境地に達することができるということに気づきました。

 また、修煉の過程には心を鋼のように強くする過程があることを理解しました。この過程を「焼入れ」と呼び、これは鋼を鍛える過程を指しています。鋼鉄が鍛造されるとき、まず激しい火で加熱され、その後ハンマーで叩かれ、この過程は繰り返され、鋼鉄が必要な硬さと形に達するまで続きます。この過程が完了したとき、鋼鉄は鍛えられたものになります。私の理解では、修煉もこれと似ていて、最終的な目標は私たちが非常に高い心性に達し、鋼のように強い心を持つことです。

 修煉の鍵は、修煉を通じて私たちの空間場にある「情」を取り除き、それに代わって真・善・忍を取り入れることだと理解しています。よく修めている人は、慈悲に満ちていますが、同時に宇宙に根を下ろしているため、普通の人のように簡単に外的な影響を受けることはありません。このような向上は、私たちの修煉において非常に重要だと理解しています。

 真の修煉を経た心と、常人がいう「すでに石化したような心」との違いは何でしょうか? 私は何度も自分にこの質問をしました。多くの人々が社会で傷つけられたり、失望していたり、裏切られたりする経験をしています。大抵の場合、私たちが人生で経験するこれらの困難は、自分の周りの人々と関係があることに気づきました。常人としては、業力や前世の因縁があることが分からないため反抗するのです。多くの人は自分の本当の心を隠し、硬い殻を身にまとい、より疎遠で冷酷な性格や姿を作り上げ、それが彼らの自己防衛の策略となります。そして中には、さらに深くそれを隠し、より悪くなる人もいるのです。

 私にとって、これは重要な問題です。なぜなら、私は元々他者を思いやる心、すべてのものを愛する心を持っていたことに気づいたからです。しかし、子供時代やその後の生活の中で、多くの失望や人々からの扱いで、私は自分の心を隠すようになり、その心を硬い殻で包み込みました。修煉する前、このような心があったため、私は多くの過ちを犯し、時間が経つにつれて、そのような人間になってしまったのです。

 今の私は、自分の内面の柔らかさと平和に共存していると言えます。

 男性の世界では、通常、感情は抑圧され、感性的になりすぎないように教えられます。しかし、歴史を振り返ると、多くの偉大で力強い統治者が詩を詠んだり、家庭や家族に対して忠実であったことがわかります。これが一見矛盾しているように見えるかもしれませんが、私たちは誰もが陰陽のバランスを持っていることを知っています。ですから、たとえ男性は陽性が支配的であっても、彼には自然に陰性の一面があり、それが弱点だとは考えるべきではありません。同様に、女性にもそうした一面があります。つまり、私は今、生活の多くの側面でこの柔らかさを表現しようとしています。私は人々に自分の内面の慈悲を示すようになりましたが、その結果は非常に良いものでした。

 時には、修煉者は心性の衝突や常人とのトラブルに直面することがあります。そのとき、私は以前のような戦う心と支配欲が出てきたのが見えます。修煉する前の私は、そのように自分を守り、他人から傷つけられないようにしてきたのです。これが私が多くの友人を得る方法でもありました。これは常人の世界では有効に思えるかもしれませんが、修煉者の基準や視点から見ると、明らかに間違っていることだと分かっており、よりしっかり修めなければならないと思っています。この点に関して自分が大きな進歩を遂げていると確認でき嬉しく思います。

 私が言いたいのは、心性の向上が非常に重要であることです。私たちは鋼のような固い信念を持つだけでなく、真・善・忍の素晴らしさを示さなければなりません。大法弟子として、私たちは三つのことをしっかり行い、全身全霊で師父を助けて法を正すべきです。私たちは皆この点で進歩し続け、常に強い正念と正しい行いを保たなければならないと思っています。

 報いを期待する心を修める

 ある時、心性の衝突を経験した後、私は内に向けて、自分に何か執着心があるかを探しました。しばらく時間がかかり、ある同修の助けを借りて、私は「期待」に対する執着を見つけました。

 期待は、多くの人が抱える執着です。これは通常、人間関係の中で現れます。例えば、あなたが誰かに助けを与えたとき、その後、「彼は私に報いてくれるべきだ」と思うとか、あるいは「私は彼に良いことをしたけれど、もしかしたら悪い報いがあるかもしれない」と考えることがあります。同修と交流する時、彼らが私の話を受け入れてくれないことがあります。このような時に衝突が生じることがあります。

 常人の視点では、これは理にかなっているように見えます。つまり、良いことには良い報いがあるべきであり、誰かが正しいことを言ったときは、誰であろうと受け入れるべきだと考えるでしょう。しかし、修煉者の視点では、状況は異なります。

 「もしかしたら、あなたは前世でその人に助けられ、彼に借りがあったかもしれない。他人のために良いことをしたら、その結果として徳を得ることになり、もし相手に傷つけたとしても、あなたは忍耐することでさらに徳を得ることができる。自分が同修に正しいことを伝えたとしても、その言い方が慈悲に欠けていたため、相手は受け入れなかったかもしれない」と考えると、私は「期待」というのは、「自己」に対する執着であることに気づきました。

 私が臨死体験の記事を翻訳したことが何度もありました。それらの文章の中には、皆「無条件の愛」について話していました。法を正す過程全体で、師父はすべての衆生のために魔難を受け入れてくださいましたが、何も見返りを求められていません。これは私たちがほとんど理解できないことです。ですから、佛は慈悲からすべての生命を救い、何の報酬も期待しません。

 このことを考えると、私は大法の光が全世界を照らしていることに気づきました。私たちは大法の一粒子として、自分の光を発揮し、報いを期待することなく、全力を尽くして人々を救うべきです。私は「無為」が非常に重要であることを理解しました。私たちが善行を行うとき、心に何も求めることなく行動すべきです。それを実践することで、私たちは本当に修煉者の基準に達することができるのです。私たち大法弟子がこれからの修煉で、皆これができることを願っています。

 (続く)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/2/6/490393.html
 
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