文/米国の大法弟子
【明慧日本2025年2月19日】師父の新経文『法難』が発表されてから6カ月以上経ちました。新経文が発表されてから現在までの期間、以前にはなかった多くのことが起こりました。私は、多くの人が「師父が見ていらっしゃるから、間違ったことをすれば師父が現れるだろう」という考えを持っていることに気づきました。言い換えれば「師父が現れないということは、全体として大きな問題はない」と考えているということです。多くの人が「事態を静観する」という態度で物事に取り組んでいます。この点についてみなさんと交流したいと思います。
第一、これは修煉の道における試練であり師父は迷いを解決されない
昨年9月に師父の新経文『人類はなぜ迷いの社会なのか』が発表されました。私は何度か
読んだのですが、経文の内容と現在の状況がどう結びつくのか、よく理解できませんでした。しかし、徐々に多くの同修が師父に答えを求め、現在の状況について解説してほしいと思っていることに気づきました。しかし『人類はなぜ迷いの社会なのか』という経文の中で、師父はすでに、この問いには答えられないということを示唆しているのではないでしょうか
師父は「すなわち、人間の『迷い』は衆生を救い、天体とあまたの宇宙を救うために造られたものです。この『迷い』にこれほど重要な理由がある以上、決して人間の人心に合わせて破られることはありません」(『人類はなぜ迷いの社会なのか』)と説かれました。
私の個人的な理解では、新経文が発表されてから現在までの期間、大法弟子は師父に答えを求め続けるのではなく、精進して、法を正す時期の修煉が終わるまで成長を遂げるべきです。師父が直接答えを示してくださらない状況でも、法を師とし、法を守り、より多くの人を救うために努力すべきです。
第二、これは安逸心であり依頼心である
もう一度よく考えてみましょう。なぜ皆は師父が何か言われるのを待っているのでしょうか? それは、苦をなめたくないという自分中心の考えがあるからです。だから深く考えずに、自分が矛盾を抱えた状況にいることを認めようとせず「元々取り組んでいた大法のプロジェクトで自分の役割を全うすれば良い」、「他のことは誰かがやってくれるし、何か問題があれば師父が見てくださるだろう」と考えているのです。
私の理解では、一般的な難や関であればこのような対応で良いでしょう。しかし、現在の状況は「法難」という特別な時期であり、この難の出現と状況はすべての修煉者に関係しています。この難が形成される過程で、あなたはどのような行動をとりましたか? 難が現れ、師父が具体的な答えを示されないからといって、あなたは何も行動しなくなったのですか? もしかしたら皆がこのように考えているのではないでしょうか。自分が担当しているプロジェクトは順調に進んでいるし、集団煉功や学法の環境もある。自分の担当範囲さえしっかり行えば良い、何か問題があれば師父が見てくださるだろうと。しかし、修煉中に何か問題に直面するたびに師父の答えを待つのであれば、それは自分自身が修煉していると言えるでしょうか? それとも師父が修煉なさっているのでしょうか? 自分の心を苦しめなければ、どのように心性を向上させることができるでしょうか?
1999年「4.25」、中国の多くの同修は誰の指示もなしに約1万から3万人が自発的に北京の中央陳情受付事務所に陳情に訪れました。なぜでしょうか? それは、不正な事、人を傷つける事を見て見ぬふりができなかったからです。大法弟子は自ら進んで法を守ろうとしたのです。26年が経った今、なぜ皆さんは法で自分の修煉を指導する方法が分からなくなってしまったのでしょうか?
第三、私たちはどのように行動すべきでしょうか?
多くの人が、修煉の過程の中でどこかおかしいと感じているようです。私は「なぜおかしいのか」ということを深く考えていた時、師父の「多くの人は、そのわけを深く考えずに、ただ不思議に思い、煉功できないのを悔しく思います。その『不思議』という思いに阻まれますが、実はそれが魔の妨害にほかならず、あなたを邪魔するように人に指図しているのです」(『轉法輪』)という法が頭に浮かびました。
私の理解では、修煉中、自分は修煉者であるという意識を持ち、法に則って理解し、考えを深めることが重要です。何か疑問に感じた時、あなたは積極的に宇宙の真理を理解し、大法を基にして大法の教えと食い違いが生じていることの本質的な原因を見極めようとしていますか?
また、ある人たちは、安逸心や情にとらわれ、物事を深く理解しようとしたり、考えようとすることを拒否する人もいます。その人たちは「私たちは内に向けて探し、多く正念を発すれば、みなの心性が向上し、すべて解決する」と言い訳します。しかし、もし20年前、師父が法を説き始められた当初から皆がこのような態度をとっていたら、今日の世界はどうなっていたでしょうか。師父はすでに「做すところ到るは是れ修なり」(『洪吟』「実修」)と教えてくださっています。私たちは本当に自分の人心、人情、私心、私念、自我を取り除き、プロジェクトや大法に対して責任を果たしていると言えるでしょうか?
私の理解では、師父が常に按排されている方法に従って行うべきです。それは、学法、煉功、発正念を確実に行うことだけでなく、大法弟子同士の交流も師父が私たちに与えてくださった方法の一つです。全体として、現在の状況に合わせて交流し、共通認識を形成し、一人一人が積極的に法に則って考えるべきだと思います。
師父が新たに発表された『肝心な時に人の心を見極めている』という経文は、すべての法輪功修煉者に対する深刻な警告です。個人的な理解ですが、誰もが法を守らなければなりませんが、その前提として、自分自身を修煉者として厳しく律する必要があります。特に重要な局面では、自分の言動の中に「私心」や「私念」がないか、厳しく見直すことが大切です。少しでも私心や私念が強ければ、邪悪につけ込まれ、法を乱すような行動に繋がる可能性があります。そうなれば、真相が明らかになった後に深く後悔することになります。
師父は『肝心な時に人の心を見極めている』という新経文の中で「これは末後、修めていない人、嘘偽りの修煉をしている人、あまり真剣に修煉していない人を暴き出しているのではありませんか? これは末後、世の人を救っていると同時に大法の内部を一掃しているのではありませんか? 皆さんはこのように感じていませんか?」と説かれています。
師父の新経文では、修めていない人、嘘偽りの修煉をしている人、あまり真剣に修煉していない人の三種類の人が特に指摘されています。このような人は、法輪功の修煉者のグループの中に長年いるかもしれません。彼らは自分自身を「優れた才能を持つ人」、「経験豊富な人」、「人脈が広い人」、「誰よりも能力があり、見識がある」などと信じ込み、他の全ての修煉者が自分より劣っていると見下しているかもしれません。修煉中に間違いを犯すことは避けられませんが、毎回の過ちを自分自身を証明する言い訳に変えてしまうと、一つの関を乗り越えられず、それが積み重なって、最終的に、あちこちで人を引き入れてグループを作り始め(400人以上のグループを作ったが、多くの弟子が入ってすぐに退会した)、既存のグループ(地域のグループなど)を利用して周囲の人に影響を与え、自分の主張や闘争的な観念を広めようとし、自分に従うように大法弟子に促そうとし、最終的に大きな問題へと発展してしまうことがあります。
実際、常人を見ても、傲慢で自分中心で視野が狭い人は一時的に成功を収めても、最終的には必ず失敗し、人生を破滅させてしまうものです。修煉は、着実に積み重ね、苦を乗り越え、内に向けて修煉し、来世における約束を果たすために、絶えず法に則って自分を清めていくことが大切です。そうすることで、最終的に円満成就に達することができるのです。
どのようにすればいいのか、その答えはすべて法の中にあります。常人社会において、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、修士課程、博士課程、博士研究員と、あなたはどの段階にとどまりたいと願いますか? 小学校が快適だからといって、あなたのことを学校が永遠に小学校にとどまらせるでしょうか? ですから、私たちは理性的に考えなければなりません。トラブルは、修煉を向上させる機会なのです。常人間での争いの手段を磨くためのものでもなければ、常人の中で是非を論じるためのものでもありません。また、傍観者として独り言を言うためのものでもありません。真に法を師として修煉し乗り越えることこそが、本当の修煉なのです。