修煉の基点から法難を見る(一)
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文/アメリカの大法弟子

 【明慧日本2025年2月24日】師父は経文「目覚めなさい」に、「慈悲心までなくなり、自分の責任と使命を忘れ、自分が修煉者であることまで忘れてしまったなら、常人と同じようになり、大法弟子を常人と混同させてしまうのです。それなら、どのような団体になるのですか」と述べられています。師父からこんなに厳しい言葉を聞くのは初めてですが、多くの同修がまだ呆然と指示待ちの状態にあります。それを見て、大法を守って皆さんと共に向上するために、今日は自分の考えを話したいと思います。

 ここで主に触れているのはアメリカにいる同修たちですが、アメリカの同修だけに限定するのではありません。他の地域の同修について、一緒にいないので正確な状況を把握できていません。ですから、自分の想像に頼ってでたらめを言ってはいけません。また、私の視野に限界があり、接触している同修の人数も限られているので、下記に述べた内容はアメリカの修煉者全員を含めるものではないことをご理解ください。不適切な表現があればご容赦ください。

 1、師父と大法への敬意

 法輪功と師父が訴えられたことについて、知った瞬間にどのように考えたのか、その考えは大法の基準に沿うものかどうか、もし沿っていなければ、自分はなぜそのような考え方を持つのか、その考えはどこから来たのか、どのあたりの法理に対する理解が足りないのか、それを自問自答すること自体は修煉の過程です。

 我々に不足がなければ、このような事態が起こり得ません。ミラレパの修煉の物語に、師父はよく彼を殴ったり苦しめたりして、彼はただ自分の業が重いと思って師父を恨んだことは一度もありません。自問自答して、私たちは彼のようにできますか。

 師父に会う機会がよくあって、師父に具体的なことを相談できる修煉者は、師父に対する敬意が徐々に疎かになっていませんか。師父は何をされて、何をおっしゃっているのか、どのように弟子の質問に答えておられるのかについてあなたが見聞きしたのは、師父が弟子のレベル、弟子の修煉状態、弟子の執着を踏まえて意図的に見せて、聞かせておられるかもしれません。目的は、弟子にご啓示を与えるためです。これによって師父に対して不敬な気持ちを生じさせてはなりません。

 2、自分の好みで法理を理解する

 師父は説法の中で宗教が堕落した原因と現象、佛教が法難に遭う原因、修煉者がどんな形で宗教を乱すか、社会の乱れ、旧宇宙の成、住、壊、滅の過程、それぞれの時期に存在した生命のそれぞれの特徴について説かれました。しかし、多くの弟子はこれが他の宗教、常人社会、旧宇宙について説かれていると考え、自分たちはそれに含まれていないと思っています。

 1996年、師父が『精進要旨』「変異」を発表され、「宗教関係者の不正行為は純潔な誓いを完全に破って、神の嘱託を何の価値もないものにしてしまい、人類と神を驚愕させました! 善良な人たちは、ひたすら彼らを自分が救われるかどうかの唯一の頼りとして見てきましたが、失望で人々はますます宗教を信じなくなり、ついには神に対して信じる心を完全に失って、憚ることなく、あらゆる悪事をし尽くしています」と説かれました。煉功点でこの文章を学んでいた時、私は「私たちも気をつけて、このようになってはいけません」と言うと、輔導員は「師父は他の宗教のことを言っているので、私たちとは関係ありません」と言いました。何年も経った今でも、多くの弟子がまだそのような心構えを持っていると私は見受けています。

 師父が説かれたのは宇宙の大法で、弟子たちの修煉を指導するための指針で、説法にどこかの宗教や人間社会の現象を取り上げたのは、私の理解では、師父はこれらの例を使って法輪大法修煉者という団体に将来起こり得る問題を戒めています。しかし大法弟子たちはそれを真剣に受け止めていませんでした。もし私たちがこのあたりについて師父の教えを避けず即座に正しい道に戻れば、多くの問題が起こらなかったり、起こっても程度が大きく軽減されたりして、法難がこのような形で起こるはずがないと思います。

 師父は以前から示唆されていました。「皆さんが修煉の中で真に人間の根本的な執着を捨てることができれば、最後のこの魔難もこれほど邪悪なものとはならなかったはずです」(『精進要旨二』「円満成就に向かって」)

 なぜ師父のこのような教えに直面することを避けたがるのかについて自身を見つめ直すのも、正しい方向へと戻る過程であります。私の理解では、これは私たちの修煉の不十分な部分を映し出しています。つまり自分は法に正される部分ではなくて、自分は法を正す行動の「実行者」であるという自惚れた妄想です。この自惚れは気付きにくいもので、一部の修煉者はそれを「正念」だと誤解して不適切な行動をとることにつながりました。

 3、「法を師とする」ことができていない

 「法を師とする」は修煉を始める人が最初に知るべき原則です。修煉者の思考や行動はできる限り法に基づくべきですが、その通りにできない修煉者が多くいます。私が見た、修煉者の中で「法を師とする」ことができない現象を述べてみます。外部からさまざまな攻撃が発生して以来、法輪功と神韻を攻撃する人たちは実は中国共産党に買収されたと大紀元などのメディアが報道しました。真相を伝える角度からみると、これを積極的に拡散するべきですが、これは一般人向けであり、一般人を救うためのものであって、修煉の基準ではありません。しかし、多くの学習者がこれを修煉の基準としてしまい、修煉の本質を見失い、今回の法難をただ一般人同士の議論にしてしまったようです。修煉者が問題に遭うと大法から答えを見つけ、なぜそのような事が起こったのか、自分や全体でどのような不足があるのか、どう正すべきかを探求すべきです。

 プロジェクトや責任者に問題があればきっと師父によって指摘される、だから間違いがあってもそれほど厳重ではないと考える学習者がいます。また、どのプロジェクトに参加できるか、どの職務を担うかを修煉がうまくいっているかどうかの基準と見る人もいて、プロジェクト内の一部の学習者も自分の修煉が「うまくいっている」と自惚れています。また、話し方が上手で物事をスムーズに処理することを「心性が高い」標準とする人もいます。さらに、プロジェクトに参加し流れに従うことを将来、円満成就できる「保障」と思う人もいます。これらの現象も「法を師とする」からかけ離れて、修煉の環境を害していると思います。

 4、私心

 約2年前、同修Aさんが私と交流する時、何回も「私たちはアメリカという国のために何をしてきたのか、アメリカの未来を心にかけているのか」と言いました。Aさんはなぜ私にこの話をしたのか分かりませんでしたが、その言葉がずっと頭に残っています。先日、やっと学習者の中に存在している一種の気づかれにくい私心を発見しました。つまり、私は修煉したい、私は真相を伝えたい、私は人を救いたい、私は自分を高めたい、私は何かをしたい……すべて自分の目的を達成したいという思いです。これは実は自己中心的な考えで、他の人に対する配慮や責任感を欠いています。基点がずれており、常人社会にも影響を与えると思います。

 (続く)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/1/14/488291.html
 
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