何を基準に修煉を量るのか?
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文/清醒

 【明慧日本2025年2月24日】法の上で交流をしたいので、ここに直接疑問を投げかけます。何を基準に私たちの修煉を量るべきですか? どのように私たちの修煉と基準との差を量るのでしょうか?

 一、今日の状況で、私たちの修煉は最終的な基準で量るべき

 「何を基準に修煉を量るべきか」という質問について、当然、大法弟子たちは法を師とし、大法を基準に修煉を量るべきです。そこから自分の修煉と基準の差を見つけられます。これは大雑把な統一答案です。この質問に対して具体的な統一答案は得られないことが多いのです。なぜなら、「異なる次元に異なる法あり」(『轉法輪』)だからです。大法弟子は異なる次元で、修煉状態も違っています。よって、大法は大法弟子に異なる内包と異なる現れを見せるので、通常、この質問に対する具体的な統一された回答はないのです。

 しかし、今日の状況は違います。法を正す時期の修煉は終わりに近い段階に達しているので、最終的な基準で私たち修煉者を量らなければなりません。ここで私個人的には、「すべての大法弟子は、師父が2007年1月1日に発表した経文『衆生からの挨拶に感謝』で自分の修煉を量るべきだ」と認識しています。

 師父は「私の大法弟子が皆、圓満成就できるよう、心から期待しています! 世の人々が皆、真相がはっきりと分かり、歴史に定められた人類にとって最大の悪魔、邪党による中国人及び全世界に対する毒害、大法弟子に対する迫害をはっきりと認識し、この歴史上、衆生にとって最大の『劫難』を乗り越えることができるよう、心から期待しています。衆生が皆、救われることを心から期待しています!」(『精進要旨三』「衆生からの挨拶に感謝」)と説かれました。

 師父が経文の中で述べられた希望は、大法弟子が修煉において、自分に要求すべき基準です。大法弟子はかつて、自分の修煉をその基準で量っていたと思います。しかし今日、法を正す最終段階になって、大法弟子は、自ら能動的にその基準で自分の修煉を量らなければならないと思います。

 二、もし最終的な基準で私たちの修煉を量れば、全体的に見ればその差は大きく開いている

 最終的な基準で私たちの修煉を量ると、基準との差が浮き彫りになります。

 まず、多くの修煉者は、法輪大法の真実を伝え、発正念をする際に、いまだに「中国共産党の崩壊と迫害の終結」を目標とし、あるいは「自分と同修が迫害の危険から抜け出せるよう」にをい目標としており、「世のすべて人が法輪大法の真実を理解し、中国共産党の究極的な本質と中国共産党が中国人と全世界の人を毒害しているのを認識でき、すべての衆生が救われるよう」にしていないのです。

 第二に、多くの大法弟子が「何をすべきか、何をすべきでないか」を決定する時、主に「自分の修煉がよりよくできるため」と考えていますが、まだ「大法弟子は皆圓満できる」こと、圓容するよう努めるべきであるという原則を受け入れていません。

 もし私たちがこの最終的で、より高い基準で私たちの修煉を量るならば、私たちはより早く自分を向上させることができ、大法によりよく同化することができ、より大きな力と威徳を得て、私たち全体がこの偉大な歴史的使命と託された重大な期待を果たすことができます。

 【修煉者同士の理性的な交流は、一般的に、その修煉者がその時点で修煉を通して得た認識に基づいたものであり、善意を持って交流し、互いに向上することを目指すものです】

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/2/18/490853.html
 
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