文/米国の大法弟子
【明慧日本2025年5月4日】ここ数年、あらゆる面でさまざまな困難に直面し、生活が順調ではないと感じています。例えば、家のリフォームは政府の5回の検査を通過しなければならず、いずれも厳しくて通過が難しく、リフォームがなかなか進みません。車は何度修理しても騒音の問題が解決せず、まるでトラクターを運転しているかのようです。子どもの学費で貯蓄がほぼ尽きてしまい、一家が非常に窮迫な生活を送っています。これらの困難に直面し、すべてが「崩壊」寸前のようでした。
一、「苦」が修煉のチャンス
2024年、車がオイル漏れを起こしたため、エンジンを大規模に修理しました。修理が終わった後、私はバスに乗って車を取りに行くことにしました。バス停に着いたとき、ちょうど一台のバスが停留所から出てきたのを見て、私は運転手に手を振りました。しかし、彼は停車せず、ただ笑顔で私を見て、そのまま走り去りました。私は「このバスは私が行きたい場所には行かないのかもしれない」と思いました。
そこで私は、次のバスを待つことにしました。いくら待ってもバスが来ないので、バス会社に問い合わせたところ、運転手が私が乗車するバス停をとばしたことが分かりました。その時点で私はすでに1~2時間バス停で待っていました。不満に思った私は再びバス会社に電話をかけ、運転手の名前を聞き出して苦情を言おうと考えました。
散々振り回された後、私は怒りを押し殺しながら次のバスを待つことにしました。さらにもう1時間近く待ってようやくバスが来ました。そこで初めて分かったのですが、最初のバス(運転手が微笑んで走り去った)は、実は私が乗るべきバスで、ただ運転手が交代していただけでした。最初の運転手に「弄ばれた」ような気がして怒りが込み上げてきた私は、2番目の運転手に不満をぶつけてしまいました。
約1年後、また車を修理に出したため、私はバスで通勤することになりました。バス停で1時間以上待った後、またもや運転手が私のバス停をスキップしたことに気づきました。少し落胆し、不満も感じましたが、今回はこう思いました。「困難やトラブルに直面したとき、情に流された。大丈夫、怒らず、家に帰って食事を済ませ、次のバスに乗ればいいんだ」
2回の「トラブル」を経てから気づいたのですが、私は多くの心性を高める機会を逃したかもしれません。
生活やプロジェクトで遭遇したさまざまな苦労やトラブルを振り返ると、私は修煉者の基準で自分を律しておらず、情に流されて、人心や常人の考え方でそれらのトラブルを常人の問題として捉え、どうしようもない状態に陥り、あまりにもつらいと感じていたのです。
二、低い次元の思惟から抜け出す
自分が修煉中に遭遇した苦しみや問題を人心や人念で捉えていたと気づいたとき、私はこう悟りました。私たちの先天的な本性は善良なもので、真・善・忍に符合しています。しかし、成住壊滅の規律に沿い、一層一層と下ってきた過程で、本性が三界の「情」および後天的に形成された低い次元の思惟に覆い隠されてしまいました。
これらの低い次元の思惟には、少なくとも以下のようなものが含まれます。利己的な考え、さまざまな執着心、人間の「情」や欲望、思想業力などです。これらは私たちの思考の中で形成された実体のない幻や観念であり、宇宙の大法に反するものです。利己的になれば、より多く得るのではなく、業を積むだけです。また「情」に執着すれば、業力の輪廻から抜け出せないだけでなく、自分で悩みの種を蒔くだけです。実際、伝統的な人間社会においても、社会は「情」ではなく「徳」と「礼」で成り立っており、君主と臣下、親と子は忠と義を唱えているのです。
修煉の過程で、良いことや悪いことに遭遇すると、私たちは低い次元の思惟で物事に対処しようとする傾向があります。良いことであれば喜び、悪いことであれば落ち込み、挫折に直面すると気落ちし、不公平を受けると憤慨し、危険に遭遇すると怖くなり、損得に心を悩まします。これらは修煉者が低い次元の思惟から脱却し、大法に符合する先天的な善良な本性をもって物事を捉え、対処するチャンスであり、修行における向上が得られる良い機会でもあります。
三、柳暗花明
この法理が分かってから、私はトラブルに遭遇したときには、後天的な観念、特に三界内の情に振り回されるのではなく、生来の善良な本性で物事を見るべきだと知りました。その直後、信じがたい出来事が起こりました。
私の車はトラクターのようにうるさくて、何年経っても解決しませんでした。このままでは危険だと思い、安く売ってから別の安い中古車を購入しようと考えました。中古車探しを手伝ってくれている友人はある修理工場で働いているので、私は車をそこに持って行き、もう一度見てもらうことにしました。「音の問題が解決できれば、車を売らずに済むし、修煉者として車を売るのも惜しくて、安全さえ保障できれば手放したくない」と思いました。
車を見て、友人は車輪の一部の部品だけ交換すれば済む話だと言いました。修理工場の社長に修理にどれくらいの時間がかかるかと聞くと、彼は部品の在庫を確認する必要があり、一本の電話をかけた後、数分で部品が届きました。友人はすぐに交換作業に入り、瞬く間に修理が終わって、騒音も完全になくなりました。全部で約1時間ほどかかりました。アメリカでは、車の修理工場は通常、車が来てもすぐには修理に取り掛からず、予約も必要です。しかもその日は土曜日で、多くの修理工場は新しい仕事を受け付けないのです。
車に乗り込み、言葉では表現しきれないほどの感謝の気持ちが込み上げてきて、私は両手を合わせて師父に感謝しました。「私の向上を見られて、師父が長年引きずっていた問題を解決して下さったのだ」と私は思いました。
私はさらにこう悟りました。大法弟子は宇宙の大法に従い修めているので、業力は何ものでもありません。苦を嘗め業を返すことが私たちの修煉方式の重点ではなく、業力をもとに設けられたトラブルの中で心性を高めることこそが肝心であり、正道なのです。これまで多くの困難にぶつかり、さらに困難に困難を積み重ねてきたのは、自分がこの問題において向上してこなかったからです。私が向上さえ遂げれば、師父にできないことはないのだと理解しました。