一つの考え、一つの念を修め、自分の神の面を復活させる
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2025年3月19日】数年前、私は鮮明な夢を見ました。その夢は私に強い衝撃を与えたため、今でも鮮明に覚えています。

 夢の中で、私は広々とした大きな屋敷に閉じ込められていました。その中は真っ暗でがらんとしており、私は屋敷の上空を旋回しながらさまよっていました。暗闇の中で、私は厚くて巨大な鉄の扉が固く閉ざされているのを見ました。私は必死に外に出ようとしましたが、扉はびくともしません。心の中で必死に叫びました。「外に出たい! 外に出たい!」。その時、背後の暗闇の奥から低い声が聞こえました。「お前は何を求めているのか?」私はその声に全く気を留めず、嫌悪感すら覚え、振り向きもせずに出口を探し続けました。ただひたすら切羽詰まったように旋回しながら、「私は何もいらない! 何もいらない! ただ外に出たい! 外に出たい!」と叫び続けました。そして、そのまま夢は終わりました。

 目が覚めた後も、夢の中の光景ははっきりと脳裏に焼き付いていました。私は深い悲観と絶望に陥りました。そして、この夢の意味を真剣に考えました。その啓示は明白でした。私は旧勢力の支配の中に囚われている、旧勢力の按配の中にいるのだと。きっと私の修煉に重大な問題があり、それを旧勢力が口実として私を閉じ込めたのだと気づきました。これは避けることのできない、向き合わなければならない問題でした。

 現実の修煉でも、私は自分の道が非常に困難で、強い抵抗を感じることがよくありました。まるで旧勢力の妨害が影のように付きまとっているかのようでした。しかし、旧勢力に捕らえられる原因は何なのか? 私は必死に探しましたが、長い間見つけることができませんでした。それでも、探し続けることを諦めたことはありませんでした。

 その後も、時折この夢を思い出し、再び悲観と絶望に引き込まれることがありました。しかし、法から離れなければ、私は必ずその絶望から目覚めることができる、そう気づきました。大法は私を何度も絶望から救い出し、奮い立たせ、精進へと導いてくれました。それは、師父が私のような不甲斐ない弟子を見捨てず、泥沼から引き上げてくださっているのだと感じました。私は常に旧勢力の按排を全力で否定し、主意識を強め、師父が導いてくださる道をしっかりと歩もうと決意しました。

 次第に、法の中で「一つの考え、一つの念を修める」ことの重要性を理解しました。どの考えが法に沿ったものなのか、どの考えが法に反するものなのかを、より主体的に識別できるようになってきました。不純な念が生じた時、それが現れた瞬間に素早く捕らえ、すぐに否定し、正念で消去する。すると、その不純な考えはたちまち消え去ります。こうして、自分の中に生まれた否定的な思考を排除することで、同時に正念を強め、心をより清らかにすることができました。

 以前は「一つの考え、一つの念を修める」ことが分からず、マイナスの思考が頭の中で溢れるがままにしていました。否定して排除することも知らず、物事が悪い方向へ進んでしまってから、初めて自分の過ちを内に向かって探すという状態でした。大小さまざまな魔難を経験しながら、徐々に師父が説かれた法理を悟ることができました。

 師父は「それらが作った魔難の中で修煉するのではなく、それらを認めない中で自らの道を正しく歩むのであって」(『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」)とおっしゃっています。

 この過程では、何度も同じことを繰り返し、深い教訓を得ることもありました。そして、心の中に残る人間の観念が、旧勢力によって拡大されることも実感しました。「一つの考え、一つの念を修める」ことを理解していなかった頃は、それらの思考をすべて自分自身のものだと誤解しやすかったのです。

 ある時期、私は修煉する意識を緩め、あまり積極的に修煉しなくなりました。マイナスの思考があまりにも多く、「すべて否定して排除するなんて忙しすぎて無理だ、ちょっと休もう」と思い、それらを放置してしまいました。しかし、そうすると知らず知らずのうちに、ありとあらゆる悪い念が湧き上がってきました。その時の私は、それに気づかず、むしろそれらを養ってしまっていました。特に「迫害されるのではないか」という思考が強まり、それを否定するどころか、さらに考えを巡らせ、勝手な想像を膨らませてしまいました。すると、すぐに「恐れる心」が生じました。「迫害を受けるのではないか」という恐怖が心を支配し、周囲のすべての人や出来事が自分に害をもたらすように感じ始めました。その時、ようやく自分が危険な状態にあることに気づきました。すぐに内に向かって探し、学法発正念を増やし、心の中で迫害を否定しました。振り返ってみると、その間、多くの時間をどうでもいいことに五分、十分と費やし、学法はただ「こなす」だけになっていました。毎日、急いで一講だけ読んで「学んだ」と済ませ、発正念の回数も減り、効果も薄れていました。その結果、自分の修煉の意志が緩み、すでに危険な状態に陥っていたのです。それに気づいた私は、すぐに自分を引き上げるために努力しました。次の二日間で『転法輪』を一通り学び、数時間かけて正念を発しました。そして、心の中に生じたマイナスの思考や迫害に対する恐れを徹底的に否定・排除しました。すると、迫害の思考はすぐに消え去り、恐怖や不安もなくなり、再び心が穏やかさに満たされました。

 私は修煉の厳粛さを深く認識するとともに、師父の広大な慈悲と大法の威厳を感じました。また、「一つの考え、一つの念を修める」ことの重要性を理解しました。それは、常に正念を保つことであり、正念が強ければ強いほど、邪悪を取り除く力も大きくなります。一念を発した瞬間、それは功となり、邪悪を即座に解体することができます。毎日、一つの考え、一つの念を修めることで、人間の念を神の念へと変え、神の道を歩むことになります。「人心を放下すれば、神の道が 顕れる」(『洪吟六』「人心を放下すれば、神の道が顕れる」)の通り、これは旧宇宙や旧勢力の安排を脱することでもあります。

 その後、私はまたある夢を見ました。夢の中で、私は誰かに密かに監視されていました。私はある部屋の扉を開けて外へ出ると、監視していた者も私の後を追ってきました。そのとき、「飛び立たなければいけない」と思いました。もし私が飛べば、監視者は私に手を出せなくなるはずです。そう思った瞬間、私は飛び上がり、監視者は恐れて逃げていきました。しかし、どういうわけか、私は再びその監視される部屋に戻ってしまいました。そして、また外へ出ると、再び飛び上がりました。今度は監視していた者たちが驚き、恐れおののきました。彼らは部屋の中で怒りながら、「もういい、行ってしまえ! もう二度とお前のことは構わない!」と言いました。目が覚めたとき、私は少し歓喜の心が生じそうになりましたが、すぐに「歓喜心を持ってはいけない」と気づきました。師父がどれほど心を砕いてくださったことでしょうか! 弟子が一歩でも向上できるのは、すべて師父の慈悲深い導きと大法の指引のおかげです。もしそうでなければ、今の私はどうなっていたのか、想像することすらできません。

 私は悟りました。私がその部屋を出たとき、それは「一つの考え、一つの念を修めることを学び、人心を放下し、本当に神の状態に近づいた」ことを意味していました。飛び上がったことは、「旧勢力の安排から脱し、その支配を断ち切った」ことを示していました。しかし、再び監視の部屋に戻ったのは、「否定し続けるのが面倒だ」と思い、修煉の意志を緩めたために、旧勢力に付け入る隙を与えてしまったからでした。最終的に、私は確固たる正念を持ち、再びその部屋を出て飛び立ったとき、旧勢力も「今回は本当に揺るぎない」とわかり、手出しできなくなったのです。

 師父はかつてこうおっしゃいました。「今日は復活祭であり、神が復活する日です!(熱烈な拍手) 多くお話しませんが、今日という良い日に大法弟子の神の一面を復活させましょう!」(『各地での説法六』「二〇〇四年復活祭ニューヨーク法会での説法」)

 この言葉が語られてから、すでに20年以上が経ちました。師父は何度も何度も待ってくださっています。それは、私たちが神の一面を修めるのを待っておられるのです。私は師父に申し訳なく思います。師父をあまりにも長くお待たせしてしまいました。

 以上は、私の限られた認識に基づく交流です。不足や誤りがあれば、どうか同修の皆さまの慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/1/18/488344.html
 
関連文章