留置場で学習者から、法輪大法について聞いた (1)
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ーー錦州市の周玉禎さん 14年以上にわたって中共から迫害を受けた

 【明慧日本2025年4月7日】遼寧省錦州市に住む71歳の法輪功学習者(以下、学習者)の周玉禎さんは、「真・善・忍」の信念を堅持していることを理由として、中国共産党(以下、中共)による迫害を繰り返し受けている。過去20年にわたり、何度も連行され、拘禁されただけでなく、不当に労働教養を受け、さらに3回にわたり有罪判決を受けた。これまでに合計14年間以上の拘禁を強いられている。2024年9月、周さんは不当に3度目の懲役4年6カ月判決を言い渡され、現在、遼寧省女子刑務所で拘禁されている。

 1人暮らしの周さんが古稀を迎える頃、当局に年金を不当に停止されたため、生活費がなくなった。以下は、2003年から2023年まで中共による迫害を受けた実例である。

 留置場で善縁を結び、大法に出会う

 「私の名前は周玉禎といい、女性で、1954年に生まれ、遼寧省錦州市に住んでいる。2001年、株式市場で席を巡ってある人物と口論になり、相手に軽傷を負わせ、この件で罰金の支払いを拒否したため、錦州市留置場に収容された。これをきっかけに、私の人生の中で一風変わった経験が始まった。

 当時、私の体調は極めて悪く、更年期に加え、肩関節周囲炎、腱鞘炎、関節炎の痛みが一斉に襲いかかってきた。体にはさまざまな漢方の湿布を貼り、漢方薬や西洋薬を数カ月飲み続けたが、一向に良くならなかった。さらに、巨大な精神的重圧も加わり、生活に何の意味も見出せなくなっていた。その頃、社会の現実と家庭環境に直面し、絶望を感じていた。人生に迷い、しばしば空を見上げて「ずっと良い人になりたいと思っていたのに、うまくいかず、むしろ生きるほどに状況が悪化し、ますます分からなくなる。人は何のために生きているのだろうか?」と嘆いていた。

 留置場で、市内の病院に勤務する3人と市郊外在住の2人の法輪功学習者に出会った。彼女たちの言動を通して、私は彼女たちの内面にある平和と静けさを身をもって感じた。不当な暴力を受けても、彼女たちは不満を抱かず、ましてや憎しみを持つこともなく、一般の人には理解も実践も難しいほどの善良さと慈悲を示していた。逆境の中でも、これほどまでに穏やかな心の状態を目の当たりにし、私は深く心を揺さぶられた。

 彼女たちが語る法輪大法のについて深く聞き、その善良さを直接目にしたことで、私の世界観は大きく変わった。私は目を見開き、この世界を改めて見つめ直し、目の前の現実を再評価し始めた。社会の腐敗や警察のヒステリックな振る舞いと、修煉者たちの穏やかさや善良さとの鮮明な対比を目の当たりにし、私は何が善良で何が邪悪であるのかを一瞬のうちに理解した。

 学習者たちとの交流を通じて、私の人生観も大きく変わった。3日後、私は彼女たちに対して、「外に出たら一早く『轉法輪』を探す」と伝えた。その日から、留置場の中で学習者たちと共に学び、修煉を始めた。彼女たちとの接触を通じて、それまで理解できなかった多くの道理を悟ることができた。

 13日後、妹と義弟の助けを借りて、相手への罰金を支払った。留置場から戻った後、妹の家で少し食事をしたが、すぐに近くの学習者を探しに出かけ、『轉法輪』を探し始めた。その日、雨の中で同修を見つけ、幸運にも『轉法輪』を手に入れることができた。この日は2001年10月8日であり、私にとって生涯忘れることのできない日となった。

 その時から、私は『轉法輪』に書かれている法理に従い、少しずつ自分の言動を正していくように努めた。問題に直面したときは、まず自分がどこを改善すべきかを探し、自分自身をより良くするよう心掛けた。不満を感じるような出来事があっても、他人を責めることは一切なくなった。私は法を学び続け、大法の法理に基づいて自分の行動を律し、本当に良い人になることから始めた。修煉を始めた後、私の健康状況も劇的に改善した。『轉法輪』を手に取ったその日から、一粒の薬も飲まず、膏薬を貼ることもなくなった。修煉を始めて1年余りで、疲れや倦怠感というものが全くなくなり、体が常に軽やかで快適な状態を保つことができた。

 こうして、私は逆境の中で法輪大法の修煉を始めることができ、因果応報を受けることとなった。私は生きることの本当の意味を理解し、以前感じていた生きる苦しみや疲れから完全に解放され、人生の真の 航路標識を見つけた。内面から湧き上がる喜びにより、私はまるで別人になったように感じた。その時期は、中共が法輪大法を酷く迫害する時期であり、学習者が最も傷つけられた時期でもあった。真実と虚偽、善と悪の強烈な対比の中で、私は法輪功を修煉する選択をますます確信するようになった。中共が法輪功に対して行った「天安門焼身自殺事件」や「1400件の死亡事件」を、私はじっくりと分析した。理性的に分析した結果、テレビで流されていた偽りの事件はあまりにも露骨で、あまりにも邪悪で、人々を愚弄していることは明らかだと感じた。

 真相資料を配布したとして不当連行

 修煉を通じて、私は法輪大法の広大で深遠な教義とその奇跡を身をもって感じ、大法の師父の無限の慈悲に深く感謝している。テレビで流される虚偽の嘘が多ければ多いほど、私は一般の人々がどれだけ欺かれ、愚弄されているのかを痛ましく感じ、真相の資料を配ることを決意した。資料を配る前には、必ずその内容を丁寧に確認し、一枚一枚のチラシを渡すたびに、私は自分の心の中の言葉を相手に伝えているように感じ、自分の行動に深い満足感を覚えた。

 2003年6月7日、私は道路沿いで真相のチラシをある若者に渡した後、そのまま立ち去ったが、彼が通報したことに気づかなかった。その後、私は暴動警察に捕まり、市公安局に連行された。そこで、私は警官に半日と一晩、不当に取り調べられ、真相資料の出所を尋問された。警官は期待していた結果を得られなかったため、翌日、私を市の第二留置場に送った。

 第二留置場で19日間監禁されていた間、私は不当な拘禁に対する抗議として断食を続けていた。その間、警官は何度も私を市の病院に連れて行き、強制的に灌食や点滴を施した。後に、灌食ができなくなったため、警官は私を馬三家の労働教養所に送ろうとした。ここでは、私が労働教養所に収容できるかどうかを確認するため、身体検査が行われた。その時、私の体は非常に衰弱していて、目を閉じたままで、言葉を発する力もなかった。後に医者が来たことを感じ、強く目を開けて、医者に「私はもう20日近く断食していて、一口も食べていない。灌食ももうできない」と言った。その後、医者が「彼女の体調は非常に悪い」と言っているのが聞こえた。健康上の理由で馬三家労働教養所には入所しなかった。6月25日、約20日間の苦難を経て、私はようやく家に帰えることができた。

 無実で連行され、不当に20カ月間の労働教養を受ける

 2004年5月31日の朝7時半頃、私は家を出て階段を降りていると、すでに家の下で待っていた3人の警官らに直接連行され、敬業街道に連れて行かれた。その後、私は地質探査隊の敷地内にある洗脳班に送られた。そこに到着すると、警官は私の身柄を検査し、私の衣服のポケットや手提げバッグの中身をすべて没収し、家の鍵も押収した。その後、彼らは私の家の鍵を使って私の家に入り、家には誰もいない状態で、で家を荒らし、DVDプレーヤー、ラジオ、法輪大法のCD、法輪大法の書籍、師父の写真、いくつかの真相資料を押収した。洗脳班では、私は修煉を続け、断食で迫害に抗議した。翌日、私は再び第二留置場に送られた。

 同年6月3日、何の手続きもなく、また法的手続きを経ることなく、私は直接馬三家労働教養所に送られ、さらに迫害を受けることになった。馬三家労働教養所の女性第二所(外部には「思想教育学校」として宣伝されている)には、遼寧省内の多くの学習者が拘禁されている。

 そこに着いた後、私は服を全て脱がされ、「お風呂」と言われたが、実際には身体検査だった。その後、私はとても暗くて狭い三角形の荷物室に閉じ込められた。部屋には窓もなく、布団もなく、ただ古びた草マットが敷かれているだけだった。その後、毎日、2人組や4人組の人たちが私の前で絶え間なく邪悪な考えを植え付けようとし、私の正常な思考を乱そうとした。同時に、私は小さな椅子に座らされることを強制されたが、私はこの非人道的な迫害行為に対して断固として抗議し、一度も座ることはなかった。

 5カ月半にわたる断食の間、私は普通の人々が耐えられないような苦痛と体力の消耗を経験した。最初の強制的な胃管挿入による灌食は、胃、食道、鼻腔、喉を損傷した。1カ月後、刑務官は私が食事を取らないことに気づき、私を下の階に連れて行き、隠れた場所でさらに悪質な迫害を行った。刑務官は私の体をベッドに「十」字の形で縛り付け、ズボンを引き下ろして尿管に管を挿入した。立ち上がることを許さず、鼻に管を挿入し、昼夜問わず抜かれない状態だった。毎日3回の残酷な灌食が強制的に行われ、1回の量はおおよそ2キログラム程度で、その結果、私は一日中嘔吐し続けた。最初は食物が嘔吐されたが、夜になると胃の中には食べ物がなくなり、胃に挿入された管が胃の中で刃物のように感じられ、夜間の痛みは耐えがたいものだった。夜になると嘔吐がさらにひどくなり、吐き出すものは黒色や緑色で、血液と混ざっていた。このような残忍な迫害は1週間続いた。

 断食の間、私は耐え難い汚れにも苦しんだ。その時はちょうど暑い夏で、絶え間ない嘔吐と、動けないことが重なり、吐き出したものがあちこちに散らばり、体中がひどく汚れてしまった。長時間、そして高濃度で残酷な灌食を受け続けたため、その後、灌食は毎日4回に増えた。私は絶えず吐き気を起こし、しばしば血を吐くこともあった。

 強制的灌食が約五カ月半続いた間、刑務官は私の命を顧みることなく、毎回灌食の量をどんどん増やし、最終的に私の頭部と顔はひどく浮腫み、変形し、元の容貌をまったく失ってしまった。私はもう眠ることができず、毎日座ることもできず、寝ることもできず、自分の思考すらもなくなったように感じた。身体的にも精神的にも耐えられる限界に達した。しかし、このような過酷な状況下でも、刑務官は私を解放するどころか、彼らの罪をごまかし、「こんな状態で外に出すのは恥ずかしい」と言った。

 その後、私は食事を始めた。私は「法輪大法は素晴らしい!」「迫害を終わらせろ! 不当な拘禁を終わらせろ!」と叫んだ。刑務官は私の声が他の人に聞こえることを恐れ、私を入口から遠く離れた部屋に移した。この間、刑務官は私を「転向」させるために、何度も「監視役」を交代させたが、毎回私は「転向」しなかった。

 2005年2月、私は再び馬三家の犯罪者用の労働教養区に送られた。ここは普通の犯罪者が収容される場所で、麻薬中毒、売春、盗みなどの犯罪者が収容されていた。犯罪者も警官もその汚さと堕落を存分に見せていた。受刑者同士は互いに喧嘩し、罵声が絶え間なく続いた。刑務官同士も策略を巡らせ、刑務官が受刑者に対して罵倒や暴力を振るう様子が極端に見られた。毎日のように叫び声と罵声が絶え間なく響いていた。

 「リーダー役」と「監視役」というのがあり、家にお金がある人だけが担任する。多くの人はやりたくないが、刑務官は誰の口座にお金があり、誰が大金を使っているかを見たら、ターゲットを決める。やらないといけない状況になることが多い。さらに、「リーダー役」や「監視役」の仕事は実質的に何もしなくてもよく、毎日12時間勤務、12時間休憩で、水筒1本の暖かい水の待遇がつく。他の受刑者は毎日最低でも14時間、最大で17時間近くは苦しい仕事を強いられる。そして、毎日の作業にはノルマがあり、それを達成できないと徹夜で働かされ、場合によっては拘禁期間が延長されることもある。

 こんな環境の中で、私はしばしば「法輪大法は、素晴らしい」と叫び、この方法で人々に真相を伝えようとした。最初は、毎回叫ぶたびに、「リーダー役」や「監視役」、そして周囲の監視役の受刑者から罵倒され、殴られることが常だった。あるとき、「法輪大法は素晴らしい」と叫んだ直後、大連で学習者に対して悪質な暴力を振るっていたその受刑者が私を地面に投げ倒した。頭が地面に先に当たったその瞬間、、私は何も分からなくなった。

 またある時、私は「法輪大法は、素晴らしい」を2回叫んだところ、ある薬物使用者の「監視役」が私の頭を殴り、私を部屋に引きずり込み、「まだ叫ぶか?」と尋ねた。私は叫び続けると、その「四防員」は私をベッドに押さえつけ、拳で頭を何度も激しく殴り続けた。打ち疲れた後、別の薬物使用者の「監視役」が代わりに私を殴った。監視役らは私を徹底的に殴り、ベッドは血だらけになった。そして、私が屈服しないのを見て、私を床に引きずり下ろし、足で腹部を踏みつけた。その後、私をトイレに行かせようとし、人目に付かない場所でさらに暴力を振るう準備をした。私は毅然として「『法輪大法は素晴らしい』と叫んでいるのは、あなたたちに暴力を振るわせるためではなく、私の心の声です!」と言った。そう言うと、「監視役」たちはようやく手を止めた。

 (続く)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/3/19/491746.html
 
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