マレーシア法会 | 怨恨心と嫉妬心を取り除く
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文/マレーシアの大法弟子

 【明慧日本2025年4月13日】

 尊敬なる師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は2003年初頭に正式に法輪功の修煉を始めました。修煉を通じて経験した心性向上の過程について、同修の皆さんと交流し、励まし合いたいと思います。

 怨恨心を取り除く

 師父は「あなたが思っている如何に大きな魔難にしても、苦痛にしても、いずれも良いことです。それはあなたが修煉したから現れたことです」(『各地での説法八』「二〇〇八年ニューヨーク法会での説法」)と説かれました。

 心性向上の過程で、師父のこの法に対する理解が深まりました。ある日、同修の一人がある出来事について私に腹を立て、怒りをぶつけてきました。私はその場で耐え、争いには発展しませんでした。しかしその後、その同修が公開の場でその出来事について話し始め、自分が私に怨恨の心を抱いていたことを反省し、心性を高めることができたといいます。

 それを見て、私もその場では冷静を保っていましたが、心の中では少し複雑な気持ちが湧いてきました。同修が出来事の経緯を話す中で、すべての責任を私に押し付けているように感じ、少し傷ついたのです。そのとき、自分の中に「見栄を張る」心理があることに気付きました。心が少し詰まるような感覚がありましたが、ぐっとこらえて表には出しませんでした。

 翌朝、私はメディアプロジェクトの集団学法に参加しました。その際、一人の同修が師父の経文『険悪を遠ざけよう』を学ぶ中で得た体験を述べました。同修は、「師父の説法を読んでいる時、自分は師父に対して怨恨心を持っていないと思っていました。しかし、ふとその時、師父の『相手に口答えをしたら、実は私に口答えをしたことになります』(『各地での説法十』「マンハッタン説法」)という説法が頭に浮かび上がった」と言いました。

 その同修は次の瞬間に「他人に対する抱怨心を深く掘り下げていくと、それは実は師父に対する抱怨心につながっている。師父が与えてくださった心性向上の機会を喜んで受け入れず、むしろその機会に対して不満を抱く心から来ているのだ」と悟ったと言います。

 同修の交流を聞いている間、私は涙が止まらず、温かい流れが全身を貫くような感覚を覚えました。その瞬間、それまで心に抱えていたすべてのわだかまりが一気に消え去り、心から師父への感謝で満たされました。師父が私と同修たちの心性を向上させ、生々世々に積み重ねてきた業力を消すためにどれほど心を尽くしてくださったかを実感しました。同修が修煉の道で私に与えてくれた助けに深く感謝し、師父の慈悲深い救いに心から感謝しています。

 修煉の道を振り返ると、これまで多くのトラブルに直面したとき、私は表面的には「忍ぶ」ことができても、心の中で本当に揺るがない境地には達していませんでした。このような表面的な忍耐は、私自身の性格にも関係しています。幼い頃から争いや口論を嫌い、トラブルに巻き込まれるくらいなら損をしても問題を穏便に済ませたいと思うものでした。そのため、人と表面上は平和に接することができても、心の底では相手を受け入れたり、自分の非を認めたりすることができていませんでした。

 その結果、長年にわたって自分を守るための固定観念ができ、心の中に多くの怨恨心を積み重ねてきました。この状態は、大法が目指す「真・善・忍」の基準とはほど遠いものでした。

 ある同修に「心と言葉が一致していない。思っていることと言っていることが違う」と直接指摘されたことがあります。私はその通りだと感じました。それは「真」に欠けており、本質的に大法と同化できていない状態を示していたのです。

 もちろん、自分の不足に気付くことは第一歩にすぎません。それを完全に取り除くには、段階を踏んで進めていく必要があります。私が個人的に感じているのは、悪い考えが浮かんでも、過度に焦る必要はないということです。それが自分の「真の念」ではないと見極め、排除すればよいのです。法を多く学び、心を込めて法を学び、修煉を良くしたいという強い意志を持てば、師父は必ず助けてくださり、そのような悪い要素を取り除くことができると信じています。

 嫉妬心を取り除く

 私は時々、同修を見下してしまう心を抱くことがあります。これが嫉妬心の一つの表れであることは分かっているのですが、気をつけていても時々そのような観念が湧いてきてしまいます。

 今年、とても印象深い出来事がありました。同修との間に結ばれた神聖な縁について、より深く感じる機会となりました。

 しばらくの間、私は毎日「三つのこと」を行っていましたが、心が麻痺し、気が緩んでしまい、自分の心性が向上している実感がありませんでした。それどころか、自分を律することができず、再びドラマを観たり、ショート動画を見続けたりすることに没頭してしまいました。「本当の自分」の一面では焦りを感じていましたが、強い正念を持てず、テレビを見るという執着を完全に断ち切ることができませんでした。

 ある日曜日、集団煉功に参加した後、帰ろうとした時のことです。ある同修が突然私を呼び止め、「神韻カード」を渡してくれました。この同修とは普段あまり接点がなかったため、なぜ彼女が私にカードを渡そうとするのか不思議に思いました。

 その同修はこう話しました。「あなたは中国から来たのだから、他の国で神韻の現地公演を見ることはできないでしょう。だから、無料でこの神韻カードをプレゼントしたいと思ったの」、「今、仕事はあるの?」と私のことを気遣って尋ねてくれました。

 彼女は、私が経済的に困難な状況にあるのではないかと考え、神韻の素晴らしい演技を観る機会を私にも与えたいと思ってカードを渡してくれたのでした。その優しさに心から感謝しました。そして、「私は仕事をしています。心配してくれてありがとう。この神韻カードもありがとうございます。次にお会いした時に代金をお渡ししますね」とお礼を伝えました。

 その日、家に帰って神韻の公式サイトにログインし、交響楽団の演奏を見つけてクリックしました。壮大で雄大な神韻の音楽が流れ出した瞬間、それが私の全身を貫き、エネルギーの場に包まれているように感じました。私は次々と曲を聴き続け、その素晴らしさに完全に心を奪われました。

 それ以来、毎日仕事を終えた後には神韻交響楽を数曲聴くのが日課になりました。私は音楽については全くの素人ですが、神韻の音楽は非常に豊かで、多層な構造を持ち、深遠な内包を感じさせることに気付きました。その感動は言葉に尽くせません。

 神韻の舞踊や短い劇のプログラムも視聴しました。その中で、あるプログラムの舞台背景に師父の姿が現れました。師父が慈悲深いまなざしで私を見つめておられるその瞬間、涙が溢れました。まるで迷子の子供が親に再会したような感覚で、悲しさと喜びが入り混じりました。私は心の中で「必ず真剣に修煉し、師父と共に家へ戻ります」と誓いました。

 数日間神韻の番組を見続けた結果、不思議なことにドラマや動画を見たいという執着が完全に消え去っていました。同修が神韻カードを渡してくれたのは偶然ではなく、師父が私の正念が不足し、執着から抜け出せずに苦しんでいるのを見て、このような手配をしてくださったのだと悟りました。師父に深く感謝するとともに、同修の優しさにも心から感謝しています。

 この出来事を通じて、私は改めて大法の中で修煉する弟子一人ひとりがいかに貴重であるかを理解しました。同修たちはみな、神聖な縁で結ばれています。それなのに、私は同修を見下す心や妬嫉心を抱えていました。これらは旧宇宙が抱える「私利私欲」という観念から生まれるものであり、邪念そのものだったのです。

 全体学法と煉功の重要性

 師父は、私たちに全体学法と煉功を通じて一つの全体を形成するよう教えてくださいました。私が理解したのは、私たち一人ひとりの弟子がこの全体に溶け込むことで、互いに助け合い、励まし合い、共に精進し、向上することができるということです。時には何気ない行動が、他の人にとって大きな助けになることもあります。

 マレーシアでは、全体学法ができる場所があり、週末には全体煉功を通じた法を広める機会もあります。しかし、私は地元の同修の中に、長い間これらに参加していない人がいることに気付きました。

 中国から来た同修たちの中には、初めてこの地に来た時には非常に積極的で、全体煉功や全体学法の環境を大切にしていた人たちもいます。しかし、時間が経つにつれて、参加しなくなる人も出てきました。その理由ははっきりとは分かりませんが、もし「安逸を求める心」が原因であれば、それはとても残念なことです。

 中国のような厳しい環境の中では、大法弟子たちは全体煉功の場を失い、プレッシャーを抱えながらも全体学法を続けています。それに比べ、私たちは海外という恵まれた環境にいるのですから、この環境を最大限に活用すべきだと思います。

 ある同修が私にこう言いました。「家で煉功をするのは個人修煉ですが、外で煉功をすることは法を実証することの一環です。この違いが、衆生を救う効果に大きな差をもたらします」

 私は同修が悟られた法理にとても共感しています。私自身も観光地で煉功をしているときに、同じような体験をしました。一人で煉功をしているだけなのに、中国人観光客を前にして煉功すると、明らかに非常に強いエネルギー場を感じます。それは、師父が加護してくださり、その場全体の空間場にある妨害を浄化し、中国人観光客の背後にある、真相を理解して救われることを妨げている邪悪な生命や要因を取り除いてくださっているのだと感じました。

 この交流文を書いている間も、同修たちは集会所で学法交流をしていますが、私は事情があって参加できず、オンラインで一緒に学法に参加しました。それでも、家で一人で学法するよりも、学法の質や集中度が明らかに高く、ほとんど気が散ることがありません。同修たちの交流内容も素晴らしく、とても多くのことを学びました。

 私個人としては、集団煉功や学法に参加する際に「何かを得たい」という求める心を持つべきではないと感じています。もし「参加しても自分が特に向上しない」と思って参加をやめてしまうのは、非常にもったいないことです。修煉は「求めずして得る」のであり、気付かないうちに大きな成果を得ているかもしれません。さらに、集団煉功や学法は師父が私たちに求めておられることであり、弟子として師父の教えに無条件で従うべきだと思います。

 そのため、私はマレーシアの同修も中国の同修も、全体を調和させることを大切にし、集団煉功や学法に積極的に参加して、師父が望まれる形を無条件で実現してほしいと願っています。それにより、全体としての力が高まり、より良い形で衆生を救うことができるでしょう。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/12/3/485659.html
 
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