文/中国の大法弟子 清欣
【明慧日本2025年5月6日】大法弟子として三つのことをしっかり行う過程で、同修との間で心性の摩擦や人心のぶつかり合いをよく経験します。しかし、内に向かって探すことで、すぐに向上することができます。これは、師父が弟子の執着心を取り除き、向上させるために按排してくださったものだと分かっています。私の修煉の次元で、目にしたところ、嫉妬心が至る所に存在し、修煉者にとって非常に有害なものです。この側面について内に向かって探した修煉体験を書き出し、同修と交流したいと思います。
嫉妬心は至る所に存在する
人心には根源があります。私は、怨恨心、自分勝手でうぬぼれる、他人を見下す、独りよがり、心のバランスが取れない、非難、不満など、これらすべての人心の根源が嫉妬心であることに気づきました。多くの同修がそのような人心を抱いています。このことからも、嫉妬心の悪影響は明らかです。
地元の多くの同修がさまざまな形の迫害を受けている中で、いくつかの人心を見つけていますが、なぜなかなか病業の虚像から抜け出せないのかと考えました。その根本の一部は、嫉妬心を取り除くことを重視していないことにあります。なぜなら、嫉妬心は非常に深く埋もれており、人の思考に溶け込んで、まるで自然なもののようになっており、自分では感じられないからです。別の空間では、それは花崗岩のように硬い物質です。修煉者はそれに左右されやすく、一般的には気づきにくく、見過ごしてしまいます。さらにはそれを自分自身だと思い込んでしまうことさえあります。ここ数年、私はこの方面の修煉を比較的重視してきました。重視すればするほど、それが至る所に現れていることに気づきます。
嫉妬心は、私たちが宇宙の特性に同化するのを妨げます。それ自体が宇宙の特性に背くものであり、極めて陰性で邪悪なものです。多くの人心、例えば色欲心や恐れの心なども嫉妬心と関係しています。この嫉妬心は非常に頑固で、完全に取り除かれていない限り、また現れてきますがだんだんと弱くなっていきます。この最も悪い心を絶えず重視して修めていくことで、知らず知らずのうちに心が穏やかになっているのを感じます。
私は内向的な性格ですが、どちらかというと知的な女性だと思います。幼いころから良い伝統的な家庭教育を受けてきました。私と接した多くの人たちは、私を高く評価し、「とても内面が優れている人だ」と言ってくれます。私の職業も伝統文化と関わりがあります。しかし、修煉の道に入ってからは、いわゆる「内面が優れている」ことの弊害が露わになりました。私はまさに師父が言われる「アジア嫉妬」に当てはまるのです。
私の性格の中で良くない部分は、物事をいつまでも気にしたり、自分を修めずに外に目を向けて、時には他人を「恨んでしまう」ことです。自分をなかなか手放せず、他人を受け入れることが難しいのです。それが悪い心、嫉妬心だと分かっています。しかしそれは、人の思考に溶け込んでいるので、修煉の中においては無条件に内に向かって探し、強い主意識でそれを取り除く必要があります。
内に向けて探し、嫉妬心を取り除く
今年の前半、あるなじみの同修が病業の中にあると聞き、見舞いに行きたいと思いました。少しでも正念を加えて、同修が早く魔難から抜け出せるように助けになればと願っていました。ある同修と約束して、そこに行くことにしましたが、彼女の家の具体的な住所がわからなかったので、他の同修に案内してもらいました。しかし、その同修は私たちに会おうとせずに、他の人に伝言を頼み、別の人と一緒に法を学んでいると伝えてきました。
実は、出かける前からその可能性は思い浮かんでいました。というのも、その同修はあまり多くの人に自分が病業中であることを知られたくないと聞いていたからです。私たちは仕方なく引き返すことにしました。
帰り道、私は自転車を勢いよく漕いで走っていました。すると突然、道端に設置された緑色の防護ネットにハンドルが引っかかり、私は自転車ごと転倒しました。すぐに起き上がり、服についた土を払って、そのまま家に帰りました。
夜になると、足首が痛くなり、やむを得ず内に向けて自分の心性の問題を探しました。「同修が会ってくれなかったことで、心を動かされたのでしょうか? 心の中では特に波立つことはなかった、と思っていましたが、なぜこのような予期せぬ出来事が起きたのでしょうか? なぜ私はあんなに速く自転車を漕いで、止まることができなかったのでしょうか?」
この同修とは非常に親しく、これまで何度も一緒に法を証明することを行ってきたことを思い出しました。時には一緒に法を学んだり、師父が私たちそれぞれに向上の機会を与えてくださったこともありました。しかし、私は同修との関わりの中で、自分の人心を取り除くチャンスを大切にしませんでした。接触する中で、時には自分を修めず、外にばかり目を向けていました。同修の人心ばかりに目が行き、問題を指摘する際の口調もきつく、責めたり不満をぶつけたりするような話し方になっていたのです。相手が感じたのは善意ではなく、不快感でした。同修が受け入れたくなかったのも当然です。
私たちは互いに自分を修めず、師父が用意してくださった内に向かって修めるチャンスを逃してしまいました。いつも外ばかり見ていると、マイナスのものが形成されてしまいます。そのマイナスのものが嫉妬心だと、私は知っていました。特に同修が病業に陥った際には、「それは彼女が自分の人心を固守しているからだ」と思っていました。しかし、実際には私自身が人心を固守しており、独りよがりだったのです。自分が同修の助けになり、役に立てると勝手に思っていました。まさに「天の功を貪る(自分の功績にする)」ようなものでした。
同修が難儀を乗り越えられるのは、法の威力によるものであり、同修が困難の中にある時、同修と肩を並べて共に立ち、邪悪の迫害を打ち破るべきです。しかし、外ばかりを見るこの態度こそが、法に背いていることであり、まさに嫉妬心の現れでした。こうした潜んでいた人心を見つけたことで、心がすっきりと澄んでいきました。断固として(良くない心を)排除していく中で、腐敗の物質もどんどん減っていくのを感じています。
内に向けて探すことで、私はようやく「他人がどうであるかを見るべきではない」と気づきました。師父は私たちにこのようにおっしゃっています。「修煉者は永遠に自らを修めるしかないのです」(『ヨーロッパ法会への祝辞』)
私は本当に自分を修め始め、内に向かって探し、多くの執着心を見つけました。例えば、自己への執着、うぬぼれ、人を見下すこと、顕示心、口を修めることの問題など、そして特に「自我のため、私のため」のアンバランスな心、つまり嫉妬心なのです。
今日これらの事が起こったのは、まだ嫉妬心を修める必要があるからなのです。人心があったからこそ、邪悪な要素に隙を突かれ、転倒したのです。観念を変えることで、心の中がずっと明るくなりました。
嫉妬心を取り除くために正念を発するとき、「自分をよく修めることでしか、衆生を救うことができません。自分をよく修めなければ、同修を助けることもできないのです。自分の修煉を高めてこそ、同修と一体となれることができる」と深く感じました。
再び嫉妬心を取り除き、感謝の心でそれに代える
2カ月余りが過ぎ、同修への情も放下でき、心の中でその病業中の同修への執着もなくなりました。ある日、同修の一人が私に言いました。「何事も極端に走ってはいけない。同修が病業中なら、やはり見舞いに行くべきだ。以前は多くの人に知られたくなかったようだが、今は皆が知っている」
同修が帰った後、私はまた心が穏やかでなくなりました。「あの時はとても良い実修の機会だったのに。人に知られるのを恐れていたからこそ、なおさら向き合い、実修すべきだった。もしかしたらとっくに病業の仮相を乗り越えていたかもしれない。修煉とは逆流に立ち向かうことではないのか?」と心の中で考えていました。
午後、別の同修が来て、このことについて語り合いました。しかし同修はこう言いました。「確かにそうだけど、やはり同修を包容しないといけない。誰もそんなにすぐに直せるわけがないでしょう!」と。この時、私は自分に包容心がないこと、すなわち善ではないことに気付きました。不平の心、同修への恨み、これもまた嫉妬心の現れではないでしょうか。嫉妬心が私の宇宙特性への同化を妨げているのです。
夜、静かに自分を見つめ、なぜ包容心がないのかを考えました。修煉の十数年を振り返ると、様々な時期に様々な同修の皆が私を支え、共に法を学び、何度も凸凹の困難な道を乗り越えるのを助けてくれました。特に大きな関門の時は、師父のご加護と同修の無私の助けがあったからこそ、乗り越えられたのです。同修たちの無私と善意で、彼女たちから非難や恨みの声を聞いたことがありませんでした。皆、内に向かって自分を修めているのです。
そう思うと、涙がとめどなく溢れてきました。感謝の気持ちが潮のように押し寄せ、同修の皆の美しく善良な一面が次々と目に浮かびました。それはすべて鏡ではないでしょうか。自分の足りなさを映し出してくれました。この瞬間、心は謙虚になり、穏やかになり、もはや同修のマイナス面を見ることはなく、慈愛と感謝の心に取って代わりました。
修煉はもともと困難なものです。なぜ私に同修を非難する資格があるのでしょうか。法を正す時期の修煉の道には旧勢力の邪魔や関門があります。同修間に隔たりを作らず、邪悪に隙を与えないことこそ、師父が望んでおられる姿です。
師父が授けてくださった天のはしごに感謝し、弟子は必ず大切にします!
以上が嫉妬心を取り除く一部の体験です。自分にはまだ修めきれていない面が多くあることを知っています。今後は必ず精進して実修します。もし本文に法に沿わないところがあれば、どうか同修の慈悲なるご指摘をお願いします。