文/スイスの大法弟子
【明慧日本2024年11月17日】ここ数年、交流文を書くことは私にとって大きな挑戦だと感じています。多くの観念や執着が私を妨げています。今年の夏、ある日、協調人が私に交流文が書けるかどうか尋ねてきました。翌朝、私たちは一緒に法輪大法の経文を暗唱していたところ、ちょうど次の一節に行き当たりました。師父は「弟子たちが修煉の中での感想と体験をお互いに語り合うことはとても必要なことです」(『精進要旨』「法会」)と語られました。
私はすぐに、これは師父からの啓示だと理解しました。しかし、すぐに執着心が湧き上がり、私を妨げようとしました。「自分はまだ十分に修煉できていないから、書かない方がいい」という声が聞こえました。一見すると謙虚な考えのように思えますが、よく考えてみると、実際には面子を失うことへの恐れや、他人がどう思うかを気にする人心から来ているのです。それに続いて、「現在、私は体が震える病業の表れがあるのに、どうやって交流文を壇上で朗読できるのだろう?」という心配や自己疑念が浮かびました。要するに、すべて「私」の考えであり、取り除くべきものなのです。
一、 バーゼルでの神韻公演の体験 「行ない難きも行ないうる」
2023年3月24日金曜日、バーゼルでの神韻公演の初日で、全4公演の最初の公演日でした。私は保安チームの責任者として、公演時に必要なドライアイスを手配する任務を担っていました。ドライアイスが届き、公演チームの責任者が確認したところ問題はないとのことでした。
初日の公演は順調に進み、保安の立場から私も安心し、嬉しかったのです。しかし、夜10時過ぎに神韻の協調人が私のところに来て、「届いたドライアイスが品質の基準を満たしておらず、舞台上の霧の効果が十分でない」と指摘し、翌日正午までに新しいドライアイスが必要だと言いました。このような問題を経験したことがなかったため、とても驚きました。
神韻の基準に合わないものがあり、新しいドライアイスが必要だという責任者の要望に対して、「でも…」とか「どうして? なぜ?」といった異議を唱えてはいけないと思いました。ドライアイスは昇華するもので、在庫保存ができず、スイス国内のすべてのメーカーがドライアイスを生産するのは月曜日から金曜日に限られているので、現実上、金曜深夜から土曜正午までにこの量のドライアイスを調達するのは不可能です。しかし、私はこのような人間的な思考をすぐに否定し、神韻を支援する全員が発正念をするようにしました。
奇跡が起こり始めました。スイスの天然ガス供給会社から新しいドライアイスを手に入れる可能性が出てきました。この会社は以前にもドライアイスを提供してくれたことがあり、緊急時には天然ガスシステムのメンテナンス用の24時間対応の緊急電話番号がウェブサイトに記載されていました。私たちの状況は通常のサービス対象ではありませんでしたが、この機会を逃すことはできないと思いました。その時、すでに夜11時近くでした。私は当番のスタッフに電話をかけ、状況の緊迫さを説明しました。すると、スタッフは技術者に連絡し、折り返し電話してもらうように手配してくれると言いました。
夜11時半に電話がかかってきたので、改めて状況の厳しさを説明しました。最初、担当者は「難しい」と反応しましたが、私は神韻について紹介し、その大切さを伝えました。電話の最後に、私たちは「明日には必ず奇跡が起きる」と共通の認識を得ました。彼は、翌日、責任者にプライベートで頼んでドライアイスを製造してくれる人がいるか尋ねてくれると約束してくれました。相手が心から助けようとしてくれているのを感じ、確実に道が開けると信じていました。私は彼に神韻のウェブサイトのリンクを送り、神韻について知ってもらえるようにしました。また、他の同修が貨物トラックを手配し、どこであれ明日ドライアイスを受け取りに行けるよう準備しました。
翌朝9時20分、昨夜の技術者から信じられないような良い知らせが届きました。なんと、必要な量のドライアイスがちょうどバーゼル近郊にあり、すぐに受け取れる状態だというのです。彼の同僚の一人が会社に向かっており、休憩中、彼はそこで私たちを待ってくれるとのことでした。
午後、公演会場にドライアイスが土曜午後の公演直前に間に合うよう到着しました。品質も完璧で、私たちの望み通りでした。神韻の舞台マネージャーは心から感謝し、非常に満足していました。しかし、これで話が終わりではありません。同修がトラックを取りに行った際、女性スタッフが「割引コードはお持ちですか?」と尋ねました。同修が持っていないと答えると、スタッフは「今回は50%の割引が適用されます。理由はわかりませんが、そう処理するよう指示されています」と言いました。
この出来事は私にとって非常に深い学びであり、師父と大法のご按排がどれほど偉大であるかを実感させられ、そして、師と法を信じることの重要性を理解しました。私が自然に従い、無条件で協力し、マイナス思考や疑いを持たなければ、道は開かれると感じました。常人の方々も心から助けてくれ、感謝さえしてくれるのです。内に向けて探す中で、今回の不純なドライアイスが、私にも時々不純な考えがあることを指摘したのです。例えば、疑念や失敗への恐れがあるところでした。
師父は「物事の善し悪しは人間の一念によるものだ」(『轉法輪』)と説かれました。
この出来事は、師父の法を心から理解し、心配や疑念を捨てることがどれほど重要かを私に明確に認識させてくれました。
今回の経験を通じて、私はまた一重の執着心を取り除くことができ、さらに師父と大法への信念が深まり、自分の修煉の道や自分自身をより大切に思うようになりました。また、私が師父の按排された道に従って歩むと、すべて簡単に解決できるのだと気づき、なぜ以前の取り組みがあれほど困難だったのかが理解できるようになりました。私はしばしば、努力してこそ前進できると考えていましたが、実際にはその逆で、放下して自然に任せることこそ、本当の力と軽やかさが生まれるのです。
二、仕事の中で修煉する
長年にわたって、私は上司の一人と緊張した人間関係になってしまいました。私たちはまるで異なる宇宙に住んでいるかのようで、考え方もまったく異なっていました。最近になって初めて、この状況を変えられるのは、自分だけだと本当に気づきました。以前のように彼を変えようとするのではなく、変えるべきなのは自分自身、つまり自分の心だと理解しました。師父は私たちに内に向けて探すべきだと教えてくださっています。上司と対立があるなら、自分の問題を探すべきなのです。
『轉法輪』の「嫉妬心」という章を読んだとき、私は自分がまるで申公豹のように振る舞っていることに気づきました。実際、私は上司に能力がないと思い込み、自分のほうが優れていると感じていました。嫉妬心こそが、この問題の根本原因だと分かり、自分の誤った考えをしっかりと正すようにしてから、状況は明らかに改善しました。
たとえ私にとって無能に見える上司であっても、それは良いことだと考えるようになりました。それはそういうふうに按排されたものであり、その環境で私は心性を高めることができます。上司について否定的な思いを持ち、陰で悪口を言うといった行為は、法輪大法の修煉者としての基準に合わないものです。
私は長い間、自分には嫉妬心がないと思っていましたが、嫉妬の問題があると認識したことで、さらに多くの例が浮かび上がってきました。これらの嫉妬心に、自分自身も驚かされました。しかし逆に、師父が私に示してくださったことに感謝しています。そうすることで、この嫉妬心を取り除くことができるからです。
他人のせいで不満や怒りを感じるとき、それは自分自身に問題があると最近気づきました。こうしたことを通じて、自分の心が動かされただけでなく、自身にも同じ問題と執着心があることが分かりました。周りの人々は私の鏡であり、自分の観念や執着を映し出してくれる存在なのです。
三、私の根本的な執着
師父は「修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心が、自らをここに留めさせているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれておらず、法の上から法を認識できていない、ということです」(『精進要旨二』「圓満成就に向かって」)と語られました。
ずいぶん前から、ある同修が交流の中で、私の修煉における障害について触れました。それは私が長い間乗り越えられずにいたものでした。彼は私に「それは、あなたの修煉に対する態度と関係があるかもしれません」と言いました。この言葉はまるで重い一撃のように私の心に響き、深く考えさせられました。
そもそも、私はなぜ法輪大法の修煉に入ったのでしょうか? 当時、私は「大法は自分を導き、真の自分に戻り、私と私が代表する衆生の家に帰るための道だ」と思っていました。今振り返ってみると、それは確かに素晴らしい考えでしたが、基点は利己的な考えでした。つまり、「ここから去りたい」、「自分の苦しみを終わらせたい」という願いでした。この修煉の動機が明らかになると、私は修煉とは、ただ師父の要求に沿って行動することだと考えていましたが、実のところ、自分を変えようとは思っていなかったことに気づきました。
今では、修煉とは人心を放下し、心性を高めることであり、単に忙しくして任務をこなすことではないと理解しています。さらに言えば、物事を行う際にどんな心で動かされているかが重要です。純粋な心で行っているのか、何かを求める心で行っているのか? これは、なぜ私が多くのことする時に、困難と苦労を感じているのかを説明しています。なぜなら、私は依然として自分の執着を抱えたまま、それを放下せずに大法のプロジェクトを行っているからです。
自分を変えようとせず、他の人が変わるのを待っているのなら、私の根本的な執着は「自己への固執」ということになります。そこから、「自分はダメかもしれない」、「能力がない」といった疑念が生じますが、それは隠れた安逸心でもあります。
私は、安逸心や疑心、欲望、色欲、名誉や利益を求める心などは本当の自分ではないと、はっきりと識別するようになりました。それらはすべて取り除かれなければなりません。さらに重要なのは、私の真の願いに専念すること、つまり慈悲をもって多くの人々を救い、真の修煉を行うことです。今では、自分の良くない考え方、たとえば「私はダメだ」とか「私は資格が足りない」といった考えも積極的に取り除くようにしています。これらの思考は、私を破滅に導くものです。
長い間、私は毎晩法を学ぶことを試みてきましたが、疲れや仕事、その他の事情により、なかなか実行できない日も多くありました。最近になって、ようやく自分に合ったリズムを見つけることができました。それは、毎朝出勤前に法を学ぶことです。これを続けることで、やがて修煉もきちんとできるようになることを願っています。現在は夜に修煉をしていますが、同様の理由で毎日続けるのが難しいこともあります。
四、同修の慈悲を感じる
しばらくの間、私の体の右側に多少の震えが現れるようになりました。この症状に対する対処を通じて、多くの執着心が露わになりました。不安や、法輪大法のイメージを損ねるのではないかという心配などの執着が私を妨げ、自分で大法の活動に参加する制限を設けてしまいました。この点については、また別の機会に交流したいと思います。この期間に感動したのは、同修の方々が正念で励まし支えてくれたことです。同修から一度も「だから、あなたはこの活動やあの活動には参加しないほうが良い」と言われたことがありません。同修の慈悲と寛容に心から打たれました。
師父が常に守ってくださることに感謝しています。こうして、私はより良く行い、真に修煉し、自分の誓約を果たす機会を得られたのです。しばしば自分で障害を設けてしまうので、私は師父の言葉で自分を励ましています。師父は「功法を修煉すること自体はそれほど難しくなく、次元を向上させること自体には、それほど難しいところはありません。人間の心を捨てられないから、難しいと言うのです」と説かれました。(『轉法輪』)
以上は、私が現在の段階で理解していることです。もし法にそぐわない部分があれば、ご指摘をお願いします。
尊敬する師父に感謝します! 同修の皆さんに感謝します!
(2024年スイスドイツ語地区法会での説法交流原稿)